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◎ 敗戦77年。

◎ 毎年 8月15日が近ずくとマスコミは敗戦の記事が多くなります。
◎ 2015年にカテゴリー「敗戦70年」で連載しました。

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◎ 定年まで勤めた会社の副社長は「陸軍中尉」の書いたのは雪と死体のサンドイッチです、目次を見ただけでも当時の凄惨な生活が想像できます。

◎ この本は非売品で小説でないから本当の事がかいてあります。
◎ 小学校3年で空襲をうけて゜燃える家を横目で見ながら逃げた事は覚えています。

◎ 小学校の卒業式も中学校の卒業式も覚えていません、ただ中学の時は一緒にかえった友人は覚えています。
◎ 成人式は一緒に行った友人は覚えていますかが、式典や行事は覚えていません。

◎ 最近は奇抜な格好をする馬鹿な若者が増えました。棋楽
2022-08-13(Sat)
 

敗戦70年「16」抑留者の手記

北沢さん。昭和21年4月30日、3ケ月ぶりに地獄のトランスワールに移動になった、既に本隊おらず、もぬけのからだった。
翌日、苦労した兵舎内を見て歩いた。元炊事場にはいってみたら、奥の方に兵隊がいた。1人は立って、タライの中に立っていた。栄養失調で骨と皮になつていた。両脇り兵は、裸の兵隊を洗っていた。私に敬礼しようと思ったのか、手を離したら、裸の兵隊は支え棒を取られたように、ドーンと前に倒れた、驚いて駆け寄り起そうと思って見たら、可哀想に両足の指が凍傷で切断されていた、人間は足の指が無ければ立っていられない事を始めて知った。この身体で作業もできないし、これから先どうやって生きて行くのだろうと思うと、胸が痛んだ。我々は墓地の整理「遺体の埋め換え」に派遣されたのであった。後略。
いまだに残る唇の傷跡・桑原さん。零下30度の寒風をついて重い装具を背にして行軍が始まった、夕方、公会堂のような所に泊まる事になった時、兵隊は先を争って中にはいろうとした。私は3年前にチチハル飛行場で酷寒の野外整備をして、凍傷の恐ろしさををしつていた。部下の中に鼻や耳がハクロウ化しているのを見つけ、嫌がる兵に手拭と雪で血色が戻るまで摩擦さして宿舎にいれた。この行軍で多数の凍傷患者が出て、手足を切断した人達が相当数でた、この事は経験を生かしたささやかな効果だと思っている。中略 ある日トロッコ事故で鉱石で深く唇を切った、診療所に運ばれたが縫う糸も無く絆創膏を貼られただけだつた。衰弱した身体に回復力は無く創痕は深く唇食い込んだ儘で帰国し、75歳の今でも判然と見える。ヒゲを剃る度に理不尽な抑留、死の強制労働を思い出し怒りが込み上げてくる。私はソ連での出来事をを人に話す事は避けて来た。経験のない人に話すと誇大妄想狂か、只感情的反ソ宣伝と取られるのが嫌だった。今回同志相寄り、あるが侭、見た侭の実相を訴え、故なくして異郷に果てた戦友をともらう事は誠に意義深い事戦70年を初めて見た人は、必ず①より閲覧してください。「拍手5で継続」棋楽
2015-10-30(Fri)
 

敗戦70年「15」抑留者の手記。


命拾いした機械修理工、笹尾さん。雪中の難行軍の末たどり着いた所は雪に埋もれた火の気のない収容所だつた。息つく間もなく「機械の修理工は申し出よ」の命令で20名程が集められた。毎日二名の護送兵つきで3キロ下の精錬所に通った、仕事は鉱石粉砕機の修理が主で、我々にとっては手慣れたもので、現地人より能率も良く、色々と教えてやった。食事も現地人と同じ食堂で200グラムぐらいのパンか肉入りの雑炊にスープが付いており、腹を空かした我々にとっては最大の楽しみであり、スプ濡れで重労働の金山労働とは天と地の差があった。私は金山に入っていたら確実に死んでいたと今でも思う。零下30度の通勤は楽ではなかった、10日に1回くらいに来る、ブーリャ「風速30メートルの暴風」に遭遇するときは死ぬ思いであった。風が路面の雪を巻き上げ1メートル前も見えなくなり、先頭の護送兵は馬橇の跡や馬糞を頼りに地面から30センチまで腰をかがめてソロソロ歩き、我々も背を丸めて前の人の背中に顔を付けて歩く。200メートルから300メートル程歩くとねまつ毛が凍って目が見えなくなる。「全員止まれ」で立ち止まって防寒外套から手を出して瞼を押し開くとバリバリと音がする。又「前に進め」と歩きだす。3キロの道を2時間程かかって漸く辿りつくのだった。飢えと寒さと重労働で金山労働の仲間はバタバタと倒れてい行き、所内に元気な者は少なくなった。死んだ者の毛布や防寒外套は皆生き残った者たちのパンに換えられた。2月に入ると比較的元気な私達は死者の埋葬が作業後の日課になった。最初は死者を担いで顔と顔がぶっかりて心が痛んだが、毎日の重労働の中では無感動でノルマをこなす日々となっていた。
2月末死者の多さに金山労働が中止になり、元気な私達は3月上旬、ギートロ伐採に振り向けられた。
貨車から降ろされて3日2晩の雪中行軍の最後に近い小部落を通った時。老婆が籠に蒸した馬鈴薯を持って来て、通り過ぎて行く兵隊達に泣きながら「お前たちは山で死ぬ」と言って1個ずつ手渡してくれた。その時は判らなかったが、入山後老婆の言葉と親切が深く胸に刻みこまれて今でも忘れられない思い出の一つである。
敗戦70年を初めて閲覧した人は必ず①より閲覧してください。拍手5にて継続。棋楽
2015-10-21(Wed)
 

敗戦70年「14」・異国の丘・作詞 増田幸治 作曲 吉田正。

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①今日も暮れいく 異国の丘に  友も辛かろ 切なかろ   我慢だまってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日もくる 春がくる。
③今日も昨日も 異国の空に おもい雪空 陽がうすい 倒れちゃならない 祖国の土に たどり着くまで その日まで。
大ヒットした曲、作曲家の吉田正氏も抑留者だった。①から閲覧してくれている方なら、その情景が目に浮かぶだろう。ネットに聞くことも可能、車には異国の丘 ああモンテンルパの夜は更けて 等を何時も流している。
死体整理・井関さん。4月30日、グラフスタンに着いた、所長より「7名を指揮してトランスワールに帰り、作業を命ず」部下が10名いて人選に迷ったが、希望者を募ったところ3名が申し出たので解決することができた。残された我ら8名は、再び苦しみを味わった、トランスワールに監視兵一人と共に出発した。翌日からの作業は残務作業で、想像していたより軽作業で食事も良かった。後で聞いたのだが、残った3名のうち2名が作業についていけず、栄養失調となり後方へ下がったようで、運命とはわからないものである。5月下旬、凍結した雪が融けはじめ、収容所の各家屋を見て廻ったら、数体の屍が出てきた。下で伐採作業中に聞いた事であるが、トランスワール収容所における兵隊の大部分が栄養失調に罹り、下山していく時に死亡した戦友をそのまま残していった当時の惨状を思い浮かべた。屍は我々の手で埋葬しなおした。埋葬場には150から160の墓標が建てられていた。削った杭に名前だけ記名された粗末なものであったが、当時としは残った者の精いっぱいの供養であったのであろう。凍結した雪土を掘り起こし、埋葬したようであるが、栄養失調に罹った者にはその作業も重労働で、充分に掘ることもできず、浅い穴に埋めたのか、6月初めには埋葬場の雪解けの跡に続々と死体が出てきて、毎日のように埋めなおしを続けた。死亡した方々は、果たして幾名が故郷へ知らされていたのだろうか。当時我々は、一人一人日本に知らされていると聞いていたが、果たしてどうでどうだったろうか。トランスワールの生活は6月15日まで続いた。私たちは幸いにも最初の除雪作業に出て、楽な作業にまわったようである。グラフスタンの除雪作業で収容所長に認められたのも、後の生活に役立った。15日夕方グラフスタンに到着、所長が出迎えてくれた。19日夕、所長より特別な招待を受ける、二人だけの会食、片言まじりロシア語のやりとりであったが2時間、今も忘れる事は出来ない。20日にいよいよ別れの日がきた、出発の早朝なので所長は送ってくれないと思っていたが、見送りの先頭に所長の姿を見た時はうれし涙がとめどもなく出たものであった。
注、この人は初期の段階で伐採にでたので金山作業はしていない。しかし別の収容所でソ連兵の不正を命がけで、所長に直訴した。
敗戦70年を初めてに人は必ず①より閲覧してほしい。「拍手5」で継続。棋楽
2015-10-13(Tue)
 

敗戦70年「13」シベリア抑留者の手記。


辛うじて生還、沢口さん。昭和21年が明けて私も長谷川少尉の班に入り、金山の作業に出るようになった。最初の日は試掘の坑道にはいった。しばらく歩いて喉が渇いたので、側をチョロチョロ流れている水を手で汲んで喉の渇きを癒やしたところ、数分後に腹痛を覚え下痢の症状になった。しまったと思ったが、病状が進むようになった。中略・・下痢が段々ひどくなり腰掛ていたところ、そこにワゴン車を押してきて、あけ損ね横倒しとなった。手伝いたいが腹の具合いが悪くじっとしていた。案の定、ソ連兵が大声で゛「アフチェル プロホラボ―ター」と怒鳴られたが、私は腹が悪く下痢をしているとジェスチャーで訴えポルノイ「病人」と言ったが、彼は病人は働かせていないと、私の名前を聞き、不機嫌な顔で第三坑道へ降りていった。中略・・・2月に入ってからと思うが毎日作業が終わると、カイラー「片ツルハシ」を受け取って帰る。月が煌々と照り、山肌は凍りついて青白く輝き、はるか彼方よりカチンカチンと墓を掘る音が響いてくる。寒空に背筋が冷たくなり、なんとも言うぬ寂しさが込み上げてきた。宿舎に帰るや否や、墓掘りの使役だ。雪を2メートル程跳ね上げ、更に60センチ×60センチ×2メートルの穴を掘るのは大変なことであった。墓掘りの途中戦友がカイラーを持ったまま穴に倒れこんで、冷たくなっていた。今迄掘つていたのに自分で自分の墓穴を掘っていたのだ。余りにも悲しいことである。明日は我が身と身震いがした。作業を終え休む間もなく墓掘りで元気な者も段々衰弱していった。ある朝作業出発前に16の死体を埋葬せよと命ぜられた。しかたなくバラックの死体置場に行ったが、皆どす黒く、毛髪もなく全く氏名もわからない。おまけに凍りついていてどうしようもない。スコップの先を頭と足に差し込みこじ上げると、バリバリと音がしてはがれる。それを針金でモッコ形式にして引きずるようにして運んだ。墓に埋めようとしても、手足が踏ん張ったまま凍っているので埋めることができない。歩哨が出発時間だと急がせる。止むなく誰かが手足をを折って埋めるよう言い出し、カイラーで手足を折って埋めた。全く死人に申し訳無いと思ったが。ササくれた人間の肉体だが、豚の肉となんら変わっていない。おそらく日本では誰も見たことはないだろう。
吹雪の日に不寝番が猛吹雪と言って来たので、外に出ようとしたがとても駄目で、人が出入りする穴を確保するのがやっとであった。吹雪の翌日「弱兵」が飯上げに来ないと連絡があったので、早速兵舎に行ったら、兵舎は雪に全部埋まって雪野原、これは大変と、皆と共に兵舎と思われる辺りを掘り、窓が出たので叩いたが返答が無い。入口を掘りだして中に入り、何故飯上げに来ないのかと言ったが「飯上げに行くぐらいなら死んだほうが良い」と言われて、唖然とした。何とか元気で日本に帰るまで死んではならないと言ったが返答は無かった。ある時、某上等兵が震えているとのこと、見もと、服を着て震えている。おかしいと思いボタンを外したところ
下着をつけていない。「どうした」と聞いたら「パンと交換」したとのこと。この寒さで死んでしまうぞと言ったがどうしょうもない。鎌倉上等兵は上野の精養軒でコックをしていたと言い、良く料理の話をして皆を楽しませていた、出発の時間が来ても起きてこないので、彼を揺り動かしたが返答がない、顔に手をやったら冷たくなっていた。夜にパンを食べていたとのことだが、消化不良を起こしたのではないかと思う。2月の終わりころに、入院するようになった、丁度その日砂糖の配給があり、受け取りに行った兵隊が飯盒に半分程を一人で食べてしまい「ああ旨かった、これで死んでも良い」と言って翌日死亡した。その時私は彼は恵まれた方かも知れないと思った。中略・・金山より炭鉱に行く途中、カピョル駅で弱兵の隊と会うと、歩けず貨車に乗ることもできずにいたので、板を並べて1人ずつ皆で押し上げ貨車の中に入れてやり、無事日本に帰れるよう祈って別れた。
敗戦70年を初めて読んだ人は①より読むように、「拍手5」で継続。棋楽
2015-10-06(Tue)
 

敗戦70年「12」・シベリア抑留者の証言。

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身体を張って死地を脱出「杉山さん」 富士山に雪が積もった見る度に思い出されるのがあのトランスワールである。凍土の地で飢えと寒さに加えて重労働の辛い毎日であり痩せ衰えて行く体となり、多くの戦友が栄養失調となって倒れ息を引き取っていった戦友達の冥福をお祈りします。私は体に自信があったが食糧の少ないのには勝てず衰弱していき此の侭では死ぬと思った。ソ連では凍傷か外傷でないと休ませて貰えないので何かし思案していた処、シラミに刺された左膝下を汚い爪で掻いたところ、赤く腫れあがっり化膿してきた。これだと思い痛いのを我慢して化膿を促進させてから医務室に行き診断「女医」の結果休む事が出来た。運が良いのか、努力の甲斐があったのか、3月上旬に衰弱者約40名と一緒にアカバン送りとなり山をおりた。ここでも捕虜としての惨めな待遇には変わりはなかったがトランスワールより遥かに良かった。中略・・5月19日無事に夢にも見た祖国、舞鶴港に上陸する事ができた。文字通り身体を張っての賭けに成功したが、その時の傷跡が今でもハッキリ残っており、見る度にあの当時を思い出す。

除雪作業で命をつなぐ「今井さん」3ケ月の貨車輸送のあとシベリア鉄道の一寒村に降ろされた。中略・猛吹雪をついて漸く到着した収容所は雪に埋もれた廃屋で、薪も食糧も無かった。もっとも辛かったのはパン3キロを30人で分配し、塩水だけで野菜の全く入っていないスープを分け合って辛うじて命を保った。シベリアにいる間で一番わるかった。入浴は20年9月18日から翌年1月15日まで全くなかったので全員がシラミに悩まされ疥癬がまん延した。金山の労働はきつく、坑内でぬれた衣服を乾かす薪もなく、栄養失調でバタバタと倒れていった。苦しい毎日の中で下の町まで除雪作業に出かけるのは嬉しいことであった。20名程が一隊となって、歩哨2名に付き添われて、二泊三日程度の予定で出掛ける、歩哨はのんびりしていて、夜は20畳ほどの一室に私達を入れて置いて、自分らはダンスに出かける・・その留守をいいことにして、コッソリと町中の民家に出かける。中略・・私はシベリアきてはじめて乞食を体験した。乞食はまず民家へ「ドラスチェ・こんにちは」と言って入って行く。チェを言葉のあとにつけると敬語になるのだそうだ。そして空腹を訴えるいう手順だ。ロシア人の婦人はすべて個人的には親切で同情をしめしてくれる。壁に家族の写真が良く掲げてある。その中の若者を指さして、ドイツと戦って死んだと話だす。こちらが同情の色を示すと、彼女らは涙を流す。それをみはらかって、私達は、空腹を訴えると効果は覿面「てきめん」である。早速パンやスープの残りものを出してくれる。中には馬鈴薯をつぶして油でいためたものまで出てくる。彼女達はドイツは非常に憎んでいるが、日本人には好意的である。ドイツと戦って1000万人のロシア人が戦死している、どの家に行っても婦人は多いが男子は老人と子供がほとんどで、若い男は戦争の負傷者が多い、ドイツと戦ったせいだろう。或る日某伍長と少し小奇麗な家があったので乞食に入った。お定まりのようにパン スープ 馬鈴薯などを出してくれた。その時にソ連将校が入ってきた。私達は殺されるかと思い全く観念してしまった。しかしそのソ連将校は「食べたら早く帰れ」と言っただけだった。もし性格の良くない軍人だったらどうなったであろうと思うと、背筋に寒い物が走った。中略
トランスワールの収容所の死者を年齢別にみると、20歳未満の年少者 40歳前後 30歳前後 25歳当たりの青年となる。生きのびる為にも要領が大切である。少々体裁「ていさい」の悪い乞食でもやらねば駄目だとほとほと痛感した。
入所して1ケ月が経って、私は20名と地獄谷を去って、ギートロ伐採地に行く幸運を得た、伐採の作業は慣れるにしたがって楽になり、ロシア人のマダム達も私達に全く憎しみを持っていなかった。21年6月ギートロを下り、チェナゴルカの炭鉱や地上作業をした。22年6月に舞鶴に上陸した。敗戦70年を初めて読む人は①から閲覧してください。
28日にシベリア抑留で死亡された方々の慰霊蔡が開催されていた。棋楽


2015-09-30(Wed)
 

敗戦70年「11」忘れえぬロシア人。


トランスワールのことを私達は地獄谷と呼んだ。其処には今なを私達の戦友160幾人の英霊がロウソクのごとく硬く冷たく凍り付いた屍「しかばね」となって裸体のままさまょつているからである。心から霊よ安らかに眠れと祈るのみである。中略・・・
レキシン中尉、彼は独ソ戦でドイツの捕虜になったという。そのため捕虜の苦しみをよく知っていて親切な言葉を時々かけてくれた。彼は私達が言う作業や食糧のことに対して「雪が多く交通が不便でどうすることも出来ない」と繰り返し言っていた。また彼は私が持っていた将校鞄が欲しいようであったので、彼のカバンと交換した。その後毎日私達の部屋に5個ずつ角砂糖を持ってきてくれた。多くの意地悪なソ連兵と比較し彼の姿は純真そのもののような態度だった。私は彼のカバンを記念として日本に持ち帰り、今も大切に保管している。佐藤さん。
シメルノーワとガルボーノーワ、私達がギートロで伐採を始めるにあたって、5人のロシア娘「マダムと呼んでいた」が指導に当たってくれた。ロシア語の全く分からないズブの素人が、どうにか仕事を覚え、厳しいノルマを消化しながら越冬できたことは、彼女達5の功績と言える。身なりも貧しい、彼女達は善良で少しも骨惜しみせず、実によく働き抜いた。本来彼女達の仕事は捕虜に伐採の手ほどきをするだけでよかったのだ。従って彼女達には伐採のノルマはなかった。ところが山の現場では、自分に与えられた5組「10人」の兵隊に仕事を教えながら夢中になって働き、5組それぞれのノルマの消化を支援したのである。しかし休憩もろくにとらず働き続け、ダワイ・ダワイ「さあさあ」と仕事を急き立てるマダムに辟易「へきえき」して、時には悪口などを言う兵隊もいたが、マダム達は全く気にする様子もなかった。シメルノーワは5人のリーダである。茶褐色の髪の毛、茶色の目、色黒で痩せ型、身長は160センチ位、25歳の女性だった。しかし彼女は仕事の虫で、それだけに口うるさいのも格別だが、所長のお気に入りであった。将校にはノルマはなかったが、私は兵隊と同様に働くことにしていた、彼女から手ほどき受けた私は早速彼女を誘い二人でノコギリを引いたり、まき割りをしてノルマの遅い組の援助して回った。ノコギリ引きでは彼女の敵でなかったが、まき割りでは私に分があった。私は一日の大半を行動を共にするようになった。仕事をしながら彼女はよくカチューシャのなどを歌った。ギートロを去る日が来た。「高山少尉はまき割りもうまいし、山で生活できる。山に残らないん」と彼女が言った。冗談かと思いフッと彼女を見ると涙ぐんで本気な顔だった。
ガルボノーワはただ一人ロシア人らしく大柄で色白ピンク色の頬をした娘だった。何を言われてもニコニコといつも機嫌よく兵隊達に好かれていた。シメルノ―ワでさえ兜を脱いだ私の薪割りも彼女の前では形無しだった。彼女の斧は唸りを発し、大木でも簡単に粉砕した。彼女は何時も薄着だった。フハイカ「綿入れジャンバー」の下はいつも茶色の薄いブラウス一枚、そして薪割りになると、上着を脱いでしまうので、ロシア人特有の巨大なバストが、薪を割る彼女の胸の上で大きく飛び跳ね、これを見る兵隊はしばし空腹も忘れ感嘆するのだった。
敗戦70年を初めて読んだ閲覧者は必ず①より見てください。棋楽
2015-09-20(Sun)
 

敗戦70年・「10」力つきた兵隊。


同所は採金作業所であった。到着間もなくであり、病弱者も相当出ているので2~3日間の休養がほしいと意見具申が出されたが聞き入れられず「作業せよ」との命令がだされた。収容所から約500メートル程の所の急斜面を上ると坑道があった。坑道内は雨滴が多く一度入坑してくると全身ずぶ濡れとなる。寒い季節にこの作業は大変なものであった。背中におぶって運ぶ鉱石は、わずかであったが、50メートル下の選鉱所に運ぶのであるが、1日に何回も繰り返すのだった。作業が終わって収容所に着くころには、疲れとひもじさで倒れそうになるのをじつと耐えたものである。
帰ってからぬれた被服をかわかすのにまたひと苦労であった。ドラム缶に煙突つけた通称「オンドル」と呼んでいた暖房装置であったが、1舎に1個で、しかも常時使用していなかつた。作業終了後、門に入る時各自1本あて白樺の生木が渡され、それがその夜の「まき」だった。30数名の宿舎ではこれだけでは一晩中焚くこともできず、夜中になると1本も残らない状況であったが、この間に被服を乾かさなければならなかつた。・・半乾きの衣類のまま暖房のない板の間に毛布1枚と外套だけではとても寝られるものではなかった。睡眠も充分取れないのに、翌日は作業が待っていた。どんな頑強な者でも身体が持つはずもなく、毎日のように病人が続出した。診断に行けば「ずるい」と言われ、受け付けてもらえず、労働の強要が続けられた。そのうち弱り切った者が次から次へとこの世を去って行った。余りにも死亡者が続出、病人も多発したので能率があがらず、たの作業につくことになった、この間40~50名が死亡した。入所し1月ほど過ぎたある日「21年1月中旬」、週番を命ぜられて、収容所巡視中に炊事場に立ち寄ったところ、一人の若者が飯盒をいだいて長椅子に腰をかけ、後ろの板壁に寄りかかっているのを見た、私は食事を取りに来て休んでいるのだろうと思った、所内を一巡して再度、炊事場に行った、先ほどの若者が同じ姿勢でいたので、近寄り、肩に手をかけて、ゆり動かしたところ、座ったままの姿勢で横に倒れてしまった。死んでいたのである。作業が終わり疲れ切って炊事場まで夕食をもらいにきて、混み合っていたので、休んで座った時が生命の終わりだったのだろう。そんな簡単に死ぬとは思われないかも知れないが、これが真実であつた。その他風呂へ行って風呂場でい生命を絶った人もいた。私は多くの死者を見てきたが、あの若者の姿は今も脳裏に浮かぶ。故郷の肉親との再会を願いつつ、異国に地で果てた、多くの戦友の冥福を祈るしかない。井関さん・・
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2015-09-16(Wed)
 

敗戦70年「9」死の行軍。


長い貨車輸送のあと、田舎の駅に降ろされた、一部はトラックが使用されたが、大部分は重い荷物を背負い、初めて経験する極寒の地で、馴れない行軍だった。雪は絶え間無く振り、頭から真っ白になり、背にしたリュックが肩に食い込み、飢えと寒さで落伍しかける者が出てくる。護送兵が「絶対に歩け、歩かないと凍死するぞ」と怒鳴る。通訳伝令を聞きながら、必死になってただヨタヨタと歩き続けたが、時と共に猛烈な吹雪に変わった。落伍すれば「凍死」の思いが各人の頭に浸みわたり、皆必死の様相で、ただ気力のみでヨタヨタと歩き続けた。今思い出してもゾーとする光景で、親兄弟には決して見せたくない哀れな姿だった。この時一人のロシア人が馬を飛ばしてきた「今にソリが来る、どんな事があっても歩き続けろ」と怒鳴った。この救援ソリが何台きたか覚えていない、「弱った者はソリに乗れ、荷物のおもい者はソリに乗せろ」と言う。弱りきった兵はソリにグッタリと身を任せた。後で知った事だがソリに乗った者はほとんど凍傷になり、両足切断の悲運を背負うた兵もいたようである。ソリから遅れこと数時間、疲れ切って収容所に辿り着いた。ホーと気が緩んだのであろう、到着と同時に3名の死者が出た。1分でも早く食べて休みたい! ようやくパンが配給になったが、そのパンを見て驚いた。日本で売られているタバコの半分しかない。一斤のパンとはよく聞くが、これはひとカケラのパンでしかない。誰も唖然として言葉も出なかったが、何の文句も言いようがなく、ただ飲み込んで、大急ぎでリュックより毛布を出して寝込んでしまった。そして薪もなく食もない我々を待っていたのは苛酷な金山労働であった。高木さん。
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2015-09-08(Tue)
 

敗戦70年「8」死者の埋葬「まいそう」


昭和21年1月中旬より、寒さと栄養失調と連日の重労働により死者が発生した。私も2月より3月にかけて数回、埋葬作業の指揮をとった。2月の中旬ころまでは医務室の廊下にあった裸の死体は3~5体程度で、その都度、健常者一個分隊ぐらいで、収容所より20分ぐらいの雪の原っぱに、「十字くわ」で凍土を約数10センチ堀り埋めていたが、2月下旬ごろになると段々と死者は増加し、医務室の廊下はカチカチ凍った真っ裸の死体の山となった。少なくとも10体以上を数えた。段々と作業の疲れから、埋葬作業に出る兵隊も少なくなり、また死体がどんどん増えて来るため、固く凍った凍土を掘る作業ははかどらず、3月に行った行った埋葬作業は、2メートル余り積もった雪を掘って雪の下に埋めるのがやっとだった。
3月に収容所が閉鎖され、我々はチェルナゴルカの炭鉱作業に移ったが、6月ごろになると、我々が埋めた死体は雪解けと共に地表に出て誠に目もあてられない地獄絵となった。我々がが埋葬作業をした場所は谷川の河原であったらしく、雪解けの水で全部がむき出しになったとか。イシベスコーワヤの伐採からまたこの死体の為、作業隊がトランスワールに向かったと聞いた。今この埋葬場所がどうなっているかと思う。医務室の廊下にコチコチの死体の山があり、何時わが身がこのようなコチコチの死体となって、この異郷の地に埋められるかと思いながら、戦友を零下40度前後の寒さの中で埋めた埋葬作業は今もって脳裏に浮かびあがってくる。
この埋葬地に埋められた100数10人の霊のとこしえに安からんことを祈ります。村田さん。・・・・・棋楽
2015-08-29(Sat)
 

敗戦70年「7」国境を超えた人情。


1945年11末、カピヨーワ駅からトラック輸送で、吹雪の中をギードロという所に着いた。馴れない猛烈な吹雪と寒気の続く中で、兵隊は皆弱っていた。吹雪で夕食の黒パンが届かないので、兵隊を民家に分散し、そこで夕食をとらせるというまであった。私は女性2人と男の子の三人家族で、犬が一匹いた、家に案内された。男の働き手がいないのは、戦争の余波をやはり受けている家族のように思われた。いつもの馬糞のやうな黒パンよりは、少々ましな黒パンであった。床の蓋を上げてニンジンを取り出し、ナイフの背で皮をしごいて、ぶつキリにして食べろと言った。野菜不足の私には、大変ありがたい栄養源であり、大変うまかつた。硬く圧縮された蒙古茶のようなものを、ナイフで器用に使ってきざみ、椀に入れてくれた。牛乳も砂糖もある。こんなご馳走は1ケ月みたことも、口にしたことも無かった。砂糖を牛乳に入れようすると、牛乳がまずくなるから止めろ、お茶に入れろと手伝ってくれた。
室内の照明は薄暗かったが、家族を交えた温かい、こんな明るい雰囲気の中で贅沢な夕食を戴けるなど、夢にも思っていなかった。後から思うと、シベリア抑留中、この恵まれた夕餉が、後にも先にも唯一の機会であった。私に何歳なのかとか、父や母が心配しているだろうとか、盛んに話しかけてくれた。温かい雰囲気の中で、人間に生き返る事が出来たひとときであった。
朝、腰の曲がった老婆がバケツ一杯のふかした馬鈴薯を重そうに運んできた。皆で食べくれと言うのだった。湯気の立つ馬鈴薯を分け合って頂戴した。こんな美味しい馬鈴薯は生まれて初めてであった。彼らロシア人にとって、年間を通じての大切な食糧である事は、後でロシアの食糧事情を知って貴重なものだとつくづく思わされた。まして雪深い冬季のそれは、命と引き換えのような物であった。爺さんが「そのうちに日本人がこの部落へ上がってくるから、馬鈴薯を用意して食べさせてやってくれ、殆ど腹を空かせていると思う」と妻である老婆に頼んだと言うのであった。爺さんも来たいのだが、身体の具合が悪く寝ているので、よろしくとのことだった。
爺さんはかって、かって戦争のおり、捕虜として広島で過ごした。その時に日本人から大変親切にして貰った「恩」があるとゆうのであった。1人の男が、牛の肉を煮て、湯気だらけのまま抱えこんできた、昨夜に衛正兵が渡した薬が効いて、娘が回復したお礼だった。密殺の牛の肉であろうが、味には変わりはなかった。1ケ月以上も口にしなかった、動物性蛋白質を、皆で分け合って、大事に大事に噛んだ。誰も彼も、いつまで噛んでいた。藤森さん
カテゴリは「敗戦70年」を新設した。棋楽
2015-08-26(Wed)
 

敗戦70年「最終回」親切な人もいた。


収容所から金山まで1キロ足らずだったろうか・・。疲労して体力のない私達は苦しい地獄坂だった。しかも情け容赦なくすざましい唸りあげて強風が我々の進路を妨げることが多い。或る日金山で作業中に堪らない腹痛に襲われ、遂に監督に言って休息をした。休息と言っても別に部屋があるわけでなし、私は、コンプレッサー室に入って大きなパイプが暖かかつたので、それを抱くようにうつ伏してしまつた。ソ連人の労働者で、コンプレッサー係りのおばさんが、腹痛の薬をくれた。コップに水を入れて持ってきてくれた。スパシーボー「有難う」と言ったが、お大事に・・・・といってくれるような眼差しに受け取れた。心の底から、嬉しく有り難い気持ちがした。熱に浮かされ痛みに麻痺したようになつて、痛みに耐えながら休んでいるうちに、深い眠りに落ち込んいた。眠りから覚めて、気だるさの中でふと横を見ると、薬をくれたおばさんが立っていた。ハラショウ スパシーボー「良くなった、ありがとう」と言ったが、彼女はうなずいただけだった。今も、あのやさしい顔が浮かんでくるような気がする。西森さん。
戦争未亡人シューラ―さん。ソ連人にしては背の高い方でないが、骨格のしっかりした、たくましい感じの女性だった。一見肌ざわりのいいようでなかったが、茶木中尉と交代するとき、彼から「彼女の主人は独ソ戦争で戦死している、良く話してくれる親切な人だ」と聞いていた。はじめに「茶木が病人になったので代わりきた」と自己紹介した。うなずいて、茶木中尉の病気はどうなのかといった見舞う言葉を言葉をくれた。カタコト混じりのロシア語で、精いっぱいの苦心して、戦争で亡くなられた事のお悔やみを述べたが、その時彼女は瞼をうるませて「ワイナー ニハラショー」「戦争はいけない」と言った。二人の子供があり自分が1人て働いているという。
短い言葉の中に戦争を怨みなくなって主人を思慕する感情を顔面にただよわせているようだった。おそらく彼女には、茶木中尉が病気で倒れた同情と、収容所で日本人が次々死んでいる事と、主人がどこで、どんなにして死んだのであろうか・・戦争を憎む情は、我々以上に燃えたぎっているようだった。
1992年9月の最初の墓参の時に、彼女の家を訪ねている。写真の下にたくさんの人がお世話になった。と記載されている。
前回の拍手が「3」の為に今回が最終回。棋楽
2015-08-19(Wed)
 

敗戦70年「5」

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「ダモイ ダモイ 帰還」と騙されて連れて来られたのが、シベリアの中部、金鉱山トランスワールであった。着くまでに2カ月余かかり11月の下句になっていた。数10キロの雪道を歩かされ着いた所は山の中の収容所だった。一面の雪野原。2000坪位の広さで四隅に望楼が建っているがその他には建物らしき物はない。どうなることかと思っていたら、ソ連兵は雪の下に宿舎があると言う。手分けして雪を掻き退けて4メートル位掘り下げら入り口が見つかった。中は真っ暗。以前は囚人の収容所だったらしい。窓の外は雪の壁である。苦労は武装解除された日から始まったが、決定な悲劇は此処を舞台として展開されたのである。①の人、鬼頭さん。
地獄絵巻の現出。最初は死者の埋葬は金山に行かない軽作業者の仕事であつた。衰弱した身体でコンクリートのような凍土を掘ることは容易ではなかつたが、戦友の為と痩せた身体に鞭打って細々と続けられていた。しかし故障者が続出しい埋葬が間に合わず、死者は裸のまま収容所の廃屋に積み上げられるようになった。中略。火の気のない宿舎に骨と皮となって目ばかりギョロギョロと光る衰弱者が板の上に横たわり、1日2回の給食の際、飯盒の音がガチャつく以外は物音ひとつしない静寂と絶望感が収容所を覆っていた。中略 軍隊の組織は麻痺状態になり、飢えた兵隊がパンとの交換に死者の金歯を叩き折る、隣の戦友が死んでも申告せず二人分の食事を狙って死者と数日暮らす、炊事場の湯気に紛れてスープを盗もうとする者、等地獄絵巻が現出した。2月の死者は60名に上がった。編集者
死亡者についての考察。ソ連抑留者は約60万、死者は5〜6万人と推定されていたが、ソ連は1956年に僅か3597人と言い張ってきた。1991年4月18日、ゴルバチョフ大統領の持参では3万8647人となったが、真相は依然として藪の中である。
トランスワール収容所「ゴルバチョフ名簿」12月8名 1月33名 2月61名 3月54名 4月6名 5月記載なし 6月2名 合計164名。2月の死亡者の続出に中央から視察に来て収容所の閉鎖を決定したが、時すでに遅く3月に54名も死亡した。
ゴルバチョフ名簿にない死亡者。1月から断続的に下の診療所に転送された者及び3月にアカバン送りとなった約50名中相当な死者が出たと推定されるが、掌握できてない・・・ゴルバチョフ名簿に未掲載は少なくとも40人は超えると推定される。
入所当時、ソ連側には紙もインクもなく、古い小説本の上に、日本軍医局にあったうがい薬の二酸化マンガンを水に溶かしてインクとし、大きな字で書付ていた。医務室から送付される死亡記録を、佐藤少尉立ち合いの下で、死亡年月日順に原隊 階級 生年月日を記入していた。榊原軍医大尉、佐藤少尉はそれぞれ死亡者名簿を日本側記録として大切に保管していたが、3月末に没収された。私の判断。トランスワール収容所内の死者 168名「確実」 ギートロスタンイアでの死者 10名「確実」下の診療所での死者 約20名「推定」現地人の話と入室者の話を総合して推定。従ってゴルバチョフ名簿164名プラス未掲載者推定40名と総合的に考えて、トランスワールにおける約4ケ月の死者は200人を超えたと思われる。死亡率は26、6パーセントとなり、アバカン地区で最悪であり、全シベリアの収容所でもこのような事例はないと思う。我々は。結果論ではあるが、組織的な嬲り殺しに遇っあったと言っても過言ではない。佐藤さん。亡くなられた方々に合掌。
写真の女性は、抑留者の方々に親切にしてくれた人。拍手が「4」以上あれば連載する。棋楽
2015-08-18(Tue)
 

敗戦70年「4」


この本は1992年11月に発行、市販はされていない?当時の会員は39名 住所 氏名 電話番号も記載されている。敗戦時に25歳とすると、今年95歳、おなくなりになられた人も多いとおもいます。
骨と皮の内務係。収容所到着直後、私は曹長だったので収容所の中隊付内部係りになった、毎日、本部から伝達されてくる作業割り当てにしたがって、金山何名 除雪何名 便所掃除何名とかに割り当てていた。入所当時は体力もあったが、それも1週間ぐらいで定量の二分の一しかない食料で続々栄養失調になり、作業割り当てが日増しに困難となった。飢えの進行と同時にシャツ サルマタ 靴下といったいつた下着類の盗難も増えてき、夕方の炊事場で命の綱のカーシャ入りの飯盒が盗まれることが多くなってきた。皆、頬はコケ眼ばかりギョロつく餓鬼になっていった。入所以来入浴は一度もなく、シラミが身体中にとりついて、なけなしの血を無数のシラミに吸い取られる毎日となつた。半死半生の兵隊にとりついていたシラミは、冷たくなるとゾロゾロと這い出して隣の兵隊に取り付くので、シラミの動き方で兵隊の生死が判るのだった。中略 文字通りトランスワールは生き地獄だった。作業要員がいなくなり、私も作業に出るようになった。「中川さん、只今帰ってきました」と隣に寝ていた人に声を掛けたら冷たくなっていた。寝ている兵隊に「オイ起きろ。作業だ」と言って揺り動かすと冷たくなっていた。2月になり元気だつた私も体力、気力の衰えをひしひしと感じるようになつた。うかうかしていると自分の番がくると、我が身に言い聞かせて、気力が萎えてくると、頬を叩き、つねって気を盛り立てていた。3月になり、今思い出しても身の気のよだすようなトランスワールを後に半死半生の身体を引きずってギートロに向かった。佐藤さん。
忘れ得ぬロシア人。ドウラ軍医中尉。収容所の女軍医で、背が低く良く太った30歳位の女性だった。大変な癇癪持ちで、宿舎を巡回しては汚いとカンカンに怒り、ある将校は怠情をなじられ、頬に唾を吐きられたことがあった。私達は大いに彼女を敬遠していた。ある時私はシラミ消毒のため柵外の減菌所に同行した。私はウンザリして一日の平和を祈った。しかしこの時は機嫌が良く、いろいろと話合つた。話してみれば彼女とてもそう悪い人でないようだ、それどころか意外にも兵隊の味方であることが分かった。彼女はトランスワールで兵隊が病み衰え死んでいく見て心を痛め色々な悪条件が重なってにしても上官の無為無気力が我慢できないと言うのだった。そして彼女は自分がうるさがられていること知っていて「無事で帰国したとき私の気持ちを分かってくれる人もいるでしょ」と寂しそうにつぶやくのであった。ソ連警備兵が女性中尉のドウラを侮り、彼女の命令を聞かない事があった。彼女はは私を呼び「高山少尉、この兵隊に私の命令に従うよう伝えよ」と厳として指示した。驚いて私が指示するとかの兵隊はニヤリとして「ハイわかりました少尉殿」と真面目くさつて敬礼するのだつた。警備する者される者の立場は違ってもそこには捕虜に対する侮蔑はなかった。春に近づいたある日の夕暮れ、ドウラ中尉の宿舎から素晴らしいソプラノの歌声が響いてきた。この日彼女の歌うったサンタルチアは格別で周囲の山野に響きわたった。私達は彼女の歌に遠い祖国を偲んだ、涙をうかべる人もいた。癇癪玉を破裂させて怒鳴りまくっていた彼女も、捕虜一人ひとりの身を案ずる優しさがあった。この国に権力を盾に私利を貪る悪い者もいたが、精一杯仕事に励み、しかも純朴で常に快活さを失うことのないある種のソ連人も多かった。彼女もまさにその仲間の一人であったと思っている。高山さん。
コメントくれた方に、ブログでは返信でない未熟者です。a11b22c33z7788zz@pony.ocn.ne.jpに連絡ください。
二等兵 一等兵 上等兵 兵長 伍長 軍曹 曹長 准尉 少尉 中尉 大尉 少佐 中佐 大佐 少将 中将 大将、敗戦は小3だったが、覚えている、アメリカは准将もいた?日本軍にはなかった。棋楽
2015-08-16(Sun)
 

敗戦70年「3」忘れ得ぬロシア人。


ギートロの生活は、私達にとって捕虜生活の第一歩であると同時に、彼等ロシア人にも初めての体験らしく思われた。その後の捕虜生活の体験と比較して考えてみても、この収容所の処遇はかなり高かったように思える。特にソ連軍関係者、労働管理監督者の意識も高く、「勿論他所と比較しての事だったが」、一緒に働くロシア人も素朴純情、捕虜に対して差別をみせるような事は少しもなかった。
グルシコーフ収容所所長、独ソ戦で負傷した傷痍軍人で、年齢40歳ぐらい、右手は戦傷で力が入らず、やっと字が書ける程度であった。軍服は着ているが古ぼけていて風采は良くない。ただひとつ彼が他のロシア人と違うところは、奥底に光る炯々たる眼光だけだった。彼にたいしては民間人はもとより、警備隊の中尉もピリピリしていた、所内では彼がいるときといないと時はロシア人の雰囲気か違っていたが、私達には優しく、話す時もゆつくりと何度も繰り返してくれた。作業が終わり宿舎に帰った私達のところに毎日のように現れ、いろいろ話しかけてはジッと耳を傾け私達の話を聞いていた。そして短時間のうちに私達の名前を殆ど覚えしまったのには驚いた。彼はロシア人を叱る時は、凄い剣幕で罵倒するが、私にはしずかに理非を諭すというふうで、決して声を荒げたことはなかった。部下たちは怖いもの知らずで、彼にタバコをねだった。すると彼は喜んで持っているタバコを全部兵隊にやってしまう、そしてなおもねだられると、ポケットを裏がして見せて、ホレ、このとおりだよ、とおどけてみせるのだった。
昼休みは時間は彼は私の教官である、ノコギリや斧の使い方、木を割る時の木目の見方、伐採時の木の倒れる方向の見方などを実地に教えてくれた。彼は右手が殆ど利かないから、ノコギリや斧を実際に使って見せるときは、ひちらが気の毒と思うこともあつた。ある時、食堂の女の捕虜用食糧品の横流しが見付かった。その時彼は全員の見ている前で、その女を怒鳴りつけ、掴み掛かるばかりの形相で締め上げたので、私達は日頃の鬱憤を晴らす事が出来た。アバカンに向け出発する朝、「君達は能率は低かったが、みんなよくがんばつた。当分帰国は無いだろう」としみじみした調子で話してくれた。私はその時、肉親に別れような愛惜を彼に感じた事を覚えている。高山さん「当時23歳」・・・あと3名の名前あり・・伐採は金鉱山より楽だつた。棋楽
2015-08-14(Fri)
 
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Author:棋楽
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