7月も31日になった。


もう7月も終わりになった、歳を取ると月日の過ぎのが早い。アマレンの8月号がもう着いた、明日のアマレンのホームページに棋楽の名前がアップされるかも?
27日に開催されたて、成績は中日新聞には火曜日に掲載されたが、東海普及連合会の24日から更新されていない、もつと早くアッフすべきではないか、棋楽が事務局長なら28日にアップする。愛知県連の会報も1日にアップすべきだが、さてどうだろう?。
平均年齢が伸びても、元気でなければ意味がない、運次第。棋楽
2014-07-31(Thu)
誰が一番、強よかったか?

木村義雄十四世名人の著書に、塚田、升田、大山これらの人は天才といえる人々だ、その中でも升田氏の将棋はもっとも天才にふさわしいという感じがする。「木村名人は中原さんや羽生さんは知らない」・・以下敬称略。
加藤一二三と米長邦雄の比較、誰がつけたか神武以来の天才はウソだ?、加藤より、米長は3歳年上。同時期に対局している。
対大山名人戦、米長は46勝58敗、加藤も46勝しているが79敗、年上の大山名人に負け越している、同じ勝ち数でも、米長永世棋聖ほうが負け数が加藤九段より少ない。
直接対局は米長63勝、加藤41勝ここでも米長が上、タイトル獲得は米長19期、加藤8期、タイトル挑戦も米長48回、加藤24回、米長が多いから米長永世棋聖のほうが強かった、ただ加藤九段のA級在位36期は超一流棋士の証明だ、米長さんは26期。大山名人他の棋士との成績、升田名人に96勝70敗、二上九段116勝45敗、ただ中原名人には55勝107敗と大きく負け越している。その中原名人と米長棋聖は106勝80敗、加藤九段は63勝41敗になっている、中原名人に勝ち越してしるのが谷川九段で56勝42敗だけ。二上九段も弱くはなかった、加藤九段に49勝45敗と勝ち越している。他に内藤九段49勝、有吉九段44勝。内藤九段35勝米長棋聖34勝の記録がある。最強の棋士はやはり七冠をとった羽生さんかな?しかし木村名人の時代に七冠があれば獲得したであろうから比較は難しい。棋楽
2014-07-31(Thu)
自宅教室、4日目。


登校日と重なった為に5名、パソコンは1500点、棋楽は10回に1勝出来る位しかし「二枚落ちなら全勝出来る」人間は時間無制限、パソコンはすぐ指す。子ども達には負ければ、反省して強くなれる、3年生の女子は六枚落ちで、序盤だけ定跡を本を見て指導、龍も馬も作り、必勝態勢と思っていたが、逆転されていた、しかし50分も真剣に考えて、指せたのだから強くなれる。この盤面は900点の子が勝った局面、詰めろかけられていたが「詰みがあるのでは?」と言ったら15分考えて詰めた。5分で出来れば1800点、10分なら1300点、15分なら1000点、出来ない人は800点以下かな?・・棋楽


2014-07-30(Wed)
ブログに起こされた??


昨夜は10時半頃に、何時ものように、室温を28度に設定して、睡眠誘導剤を寝たが、0時半ごろ目が覚めてしまった。
ブログを開くと「131313」だった、アクセツ数が「130000」になった時に次は「131313」を撮りたいと書いた事を、ブログの神様が教えてくれた「笑」・・読んでくれる人は、深夜族も早朝派もいるが、平均60ぐらい。
坂田三吉師の実録をアップしようと待機していたが、拍手がやっと「10」となったが、命日は7月23日を過ぎていた、ので8月23日にアップの予定とする。
大山名人が入門した当時は、関西は木見「きみ」先生がトップで次が神田辰之助七段、別挌として坂田三吉さんがいた、この3名が今でゆうボス的な存在だった、坂田さんは他の棋士との交流はなかつたが、朝日新聞社と実業家の後援者が多く、将棋だけで生きていた。坂田さんについては、子供時代だから教祖のような印象しかないけれども、戦後のドラマに出てくると人と、かなり違う人物像が残っている。今になって思えるのは、関西のトップクラスの各界の人達が、坂田さんだけは、「坂田先生、坂田先生」と敬意を表して呼んでいたので偉い棋士だったなぁと思っていた。坂田先生は他の棋士と対局しないのが子ども心には深いナゾだった。しかし坂田さんが他の棋士対戦するようになり、記録係りを、とかく私が指名されたのは有り難くかった。・・・坂田師は大山少年の素質を見抜いていたようだ。棋楽
2014-07-29(Tue)
棋楽の師匠。

借りた本のなかに、山本先生の名前があった。昭和10年10月に日本将棋連盟が二派に分裂、残留派の土居、金、木村の各八段も関根名人の門下、改新協会の花田八段も小泉七段も弟子、金子八段は「孫弟子」であった。そんな弟子たちのケンカだから関根名人か一番困つていた。分裂騒動のころ、山本楠郎七段という雄弁な棋士が連盟の幹事役を務めていた。山本さんの師匠は小菅剣之助とゆう関根名人の兄弟子で八段の高位につきながらプロ棋士を辞め、実業界して大成功した異色の人であつた。小菅さんは当時、三重県四日市に存在していたが、連盟の幹部と関根名人は、仲介の役を頼むべしで一致、関根名人は老の身をいとわずに、木村さんと山本さんと一緒に四日市まで行き、小菅さんに出馬を乞うた。小菅さんは72歳の高齢を理由に固辞したらしいが、ついに関根名人の熱意に負けて、仲介の役目を引き受けた。和解が成立し、昭和11年6月にいわゆる「手打ち式」が行われた。小菅さんの尽力と労苦に報いるため昭和11年11月、に「名誉名人」の称号が贈られた。
山本先生は、私達には連盟の幹部だったなど一言も言われなかった。まだ三重県鳥羽市に勤務していた時に、鳥羽市の戸田屋別館での王将戦を観戦に行った時に、玄関で「山本です、担当者に連絡を」その時に大野九段「1911年生」と丸田九段「1911年生」が直ぐきて、丁寧な応対をしてくれ、対局も観戦させてくれた、山本先生は1890年生まれ。この本を読んで、2人は先輩としてではなく、山本先生が連盟の幹部として苦労したのを、知っていたのだろう。
今は山本先生に指導を受けた人で将棋を続けているのは数人しかいない。もしかして棋楽だけかも。
2014-07-28(Mon)
自宅教室、3日目。


今日から特別の日だけは、3時迄に延長する、連絡したのはラジオに出た子だけだつたので、7名中4名が弁当を持って参加する。10名が全員揃うのは8月25日の日だけ、その日に記念写真を撮ることにする。
子ども達には、盤面をよく見て指せと指導しているのに、飛車を竜と勘違いして負けてしまった。棋楽
2014-07-28(Mon)
近代将棋界を支えた人達「1」


今は大山15制名人を知らないも人も多くなったが、将棋界に貢献した人達を調べる為に、書籍を8冊、借りて来る。
貢献した棋士、最盛期に誰が一番強かったか、通算成績から見た最強棋士は誰か、非常識棋士、等、棋楽の独断で決める。
大山名人は4年生の時に成績が落ちて担任に将棋を辞めなさいと言われたか゛、ところが父が「いまプロ棋士に木村名人という天才がいて、20歳そこそこで、月3000円も稼いでいる。校長先生でも100円位、しか貰っていない。うちの康晴はとても名人とはいくまいが、六・七段になれば、かなりの収入を得られると思う。大学に進学は経済上で行かせられない。本人が夢中になるほど好きだし、将棋指しにしてやりたいです」と先生を説得したそうだ。親戚の人達にも反対の意見が多く。それには父も悩やされたらしい。当時は「将棋指し」なるなど言えば、目を丸くする人や、顔をしかめる人がたいていだったから、親類の人達が反対するののは無理のないことだった。父の決意は固く、母の後押しも強かったので、私のプロ入りは決定づけられていたわけである。プロになるには高段のプロ棋士の門下にならなければならないので、国会議員が「木村名人を知っているから紹介しょう」の話も出たそうだが、しかし倉敷市の人が、「東京は遠い、大阪に当地出身の木見金治郎八段ががいる。同じ岡山県だから木見先生にお願いしたほうがいい」の意見もあり、父も「ヤスは、とても八段までいくまい。せいぜい五・六段とまりだろう。それならプロの少ない大阪の方が、なにつけて得がある」で大阪行が決まつた、決まると反対していた人達も熱心な応援者にかわつた。出発の日は、西阿知町あげて、先生や同級生が7・8本の幟り旗を立て、歌を合唱して列を作って行進した。当時大山名人はアマ三段位、六枚落ちから指導を受けた平井先生には平手では勝てなかったとある。
木見道場で、兄弟子の升田二段に、角落ちで三連敗、それを見ていた兄弟子が゜「からだも弱く見えるし、棋力もたいしたことがないから、プロになっても駄目じゅないですか」の報告だつた。その時、父は「そうかも知れないが、とにかくもう少し様子をもてほしい、食費なんか私のほうで出します。1年間くらい経って望みがないなら破門して貰って結構です」と極力頼み込んだそうだ。「それほどの気持ちなら」と先生は入門を認めたそうだが、そのことは私が五段位の時に聞かされた。
人生の岐れ路には、微妙な問題がつきまとう、木見先生に広い心が無かったら、また父の熱意がが薄いいものだつたら、今の私は無かったわけである。・・・・・・・地元で盛大な見送りを受けているので、父親は必死だったと思います。、棋楽
2014-07-27(Sun)
岐阜県の将棋情報を見てビックリ仰天??


92名の参加の岐阜県高校竜王戦、決勝戦に残ったのは2人とも愛岐会員だった。優勝した中島君は中学生の頃には良く参加していたが、礼儀正しい子どもだった。最近は強くなりすぎて、「東海ブロック7位、2263点」参加はないが、将棋で県代表を目指す全国の高校生なら誰でも知っている強豪になった。棋楽の持論、研修会に行かなくても強くなれるを証明してくれた。
服部君は一宮こども将棋教室、自宅教室、愛岐会と小学生の時より知っている、愛岐会では中学の部活「柔道」を休んで、3年生まで子ども役員として協力してくれた。朗らかな素直な性格は、両親の躾けと本人の資質と断言できる。
今は一宮こども将棋教室の講師を時々お願いしている。服部君の名前を見た時に、同姓同名の人かと、電話したら「ボクです、準決勝の相手は強かったがミスしてくれました」・・しかし92人も参加者がいれば、そこまで残るには、6連勝位はしなくてはならない、愛岐会で鍛えた努力が、その日に出た「笑」見事な成績だ。棋楽
2014-07-26(Sat)
一宮こども将棋教室。


参加者は38名、旧館は冷房の効きが悪くかったが、無料で借りているので苦情は言えない、棋楽の子ども頃は扇風機もなかった、日射病は良く聞いたが、熱中症なんて言葉は無かった。
教室は朝の挨拶で始まる。


詰将棋、序盤の指し方、大盤を使って指導するが、強くなるのは、本人の強くなりたいとの意欲が一番大切だ。
8月は休み、9月は15日・23日、2日とも祝日。10月は12日「日」と18日「土」に決まっている、講師はこれを優先に予定をたてる。保護者が将棋教室を優先する、子どもは強くなる???・・棋楽
2014-07-26(Sat)
王位戦第二局のネット中継の感想。

昨日が二日目、帰ってすぐネットを開く、終盤戦のきわどい局面だった、立会人としての福崎九段には異存ないが、コメント欄にも出ていた、福崎九段は今の実力は五段クラスだ、タイトル戦の解説はAクラスかせめてB1クラスの棋士にすべではないか、予算が無い・・「そんなこと棋楽に関係ない」見ていた人なら判った筈、終盤に▲が9八王と早逃げした手、棋楽もその手しかないと思っていたが、指してからコメントが入った、指す前に指摘すべきではないか。
しかし終盤のねじり合いは見ごたえがあった、遊んでいた9筋の飛車が最後に働き、鮮やかに寄せきった、羽生名人はそれを前から読んでいた?今回の局面は80手位まで前例があり、強い棋士ほどそれを覚えているらしい。
絵描きはある風景を見たら、それが写真のように頭に残り、それを思いだしながら描くと読んだ記憶があるが、それて本当かな?・・棋楽
2014-07-25(Fri)
ラジオに出演。


こどもは夏休み自宅教室に来ている、5年生が2人に3年生が2人、事前の打ち合わせはことも達には、うなずくのはダメとだけだった、パーソナリティの瀬尾弘美さんは、棋楽のきつい表現にもうまくカバーしてくれた、なかなか魅力的な女性だった。子ども達にも夏休みの思い出の一つとしてとして残るでしょう。


生放送中・生放送中・・・・・・棋楽
2014-07-25(Fri)
夏休み自宅教室2日目。


今日は8名、女子二人は同じぐらいのレベル、弱い子ほど強くなる確率が大きい、今より弱くなることは絶対ない「笑」
愛岐会夏休み子ども教室として、レーティング戦を開始、これは持ち時間30分30秒、相手がさしてもすぐ指さず、よく確認してから指すように指導しているが、10分も使わずに敗ける子が多い、それが判るようになれば、強くなれるのだが・・・
今日は午後からラジオに出演のために30分早く終わる。棋楽
2014-07-25(Fri)
棋楽は心が暖かいから手も温かい。


兄を見舞て、最後に握手したときの言葉、兄の眼に涙があった、そんな言葉は浮かぶほど回復していて、手にも力があった。25日が兄の80歳の誕生日だった、本当は25日に行ききたかったのだが・・・・
病室に入った時に看護師さんがいて、「何分ほど?」聞いたら「1時間でも良いです」・・一緒に行った友人の顔を見てすごく喜んでくれた、子供の時にプロ野球を見に行ったとき、外野席に入る金もなく、交代で松の木に登ってみた事なども覚えていた、友人も、その試合を見に行ったそうだった、兄は阪神ファンで、今阪神の監督は誰?と友人に聞いていた、数年前に、棋楽は落合ファンだと言ったことも覚えていた。少し前に愛知県県に住む、末弟夫婦が見舞いにきてくれたが、「奥さんはふつくらとした美人になっいいたとも言ったが、末弟の嫁は若い時から美人だったので今ごろ気が付くとは遅いと言ってやった。入院している病院に車なら30分で行けるところに4人が住んでいるが、2人は顔を出さないらしい弟や妹もいるのが腹が立つ、兄が喜んでくれたのが最高にうれはかった。・・気楽は心が暖かいから手も温かい。この名文句を心にきざんで帰路に就く、もっと長くいたがったが、25日にはラジオのナマ出演があるため、と名鉄のラッシュを避けために早めに帰る、往復とも特急に乗らず、4時には開明に着いた。友人にも手土産はもっていかない、兄にも見舞金も置いてこなかった、顔を出すのが最高だと思っている。棋楽
2014-07-25(Fri)
懐かしい場所。




伊勢に変えると必ず立ち寄る場所、昔の面影が残る建物、ここには同級生の女の子、妹、弟がいて、両親が宇治山田駅前にで商売していて、留守だったので上がりこんでいた、塀に真鍮のパイプがあったが戦時中の物資の強制出資で切り取られている、築90年❔その姉弟の消息は不明、右の写真が宮川の渡しの渡船場の碑が建っていた、昔の南宮街道で建物はすべて変わっているがも道筋は昔のままだ。子供のころにはもう宮川橋があった、表札には知った苗字の家が多く残っている、子ども頃に遊んだ、下級生が住んでいるかるのだろう、その子どもたちも73・4だ、下級生はいじめたことはないから顔を出せば歓迎してくれるだろうが、時間がないから写真だけをとった。棋楽
2014-07-25(Fri)
友人。


もう8時29分に上がりこんでいた。小学校・中学校・養成工と、一緒、10倍の難関を突破した秀才?の1人だ、小学校の時は学区が違い遊んだことは無いが、中学3年で同じクラスになってから付き合い、法事なんかで帰った時は何時もあっていた。職場ではフライスの神様と呼ばれていた、彼は車には乗らないが、リフト・危険物「棋楽は二度落ちた」衛生管理者等8種の資格を持ち、養成工の指導者もやり、後半は出行先の工場長「80名」とし勤め、「自転車で20分」そこを退職後は、2年間は菓子屋の工場に努めていたが、同窓会で彼の経歴を知った、同窓生が役員を務める会社に誘われて、75歳まで勤めていた、その会社に中国人の訓練生に指導するため中国語も勉強していた。将棋も指し、叔父が四段「棋楽も知っている」で会社で指して負けた将棋を叔父に指導して貰つていたそうだ、平手で1回だけ勝ったのこと、伊勢市市民大会のBクラスで優勝した人「同級生」と良い勝負だそうだから、1000点位指すのでは、兄が伊勢に居る時は毎日のように墓で会っていたので、兄を見舞い行くと知ると、自分も行くと鳥羽までついて来てくれた「感謝」。棋楽は割り勘主義だが、遠い所を来てくれ他のだからと昼食も奢ってくれた。彼の趣味は貨幣集め、記念硬貨は造幣局で買うが、中に発行数が決まったのがあり抽選になるために、家族全員「7名」で応募するとのこと、8時半から2時まで付き合ってくれた、帰りは彼は宮町で下りたが、握手した手のごつかつた事。
追記、この趣味は30歳から始めて、500万円は継ぎこんだそうだが、新貨幣は値上りしなくても、銀行に預ければ元金は戻ってくるが、棋楽はギャンブルにその倍は投資?している。棋楽


2014-07-24(Thu)
兄を見舞いに行く。


鳥羽の病院に1年ほど前から入院している、兄が快方に向かったと四男から、連絡があり、見舞いに一番電車「5時36発」に乗るにために開明駅についたのが5時27分と早すぎた、この電車は回送電車でこれが戻ってくる。通勤していた頃は定期券だし改札も無かったから、3分前に家を出ていた、今なら7分前、間に合うことを帰り携帯の時間を見ながら歩き確認する。名古屋で近鉄に乗り換える、急行が発車寸前、「待ってー」と叫んでが走れない、カメラのシャッタを夢中て押たが映って
いた、車掌さんは待っていてくれた。今日は娘の誕生日、Cメールで文章はできたが、送信ができない、困って右横の中年紳士がスマホを操作していたので、お願いしたが、10分ぐらいやってくれたが、機種が違うから判らないとの事、次の駅で乗って左横に座った高校生に?紳士が頼のでくれた、携帯を持つと10秒もかからず「はい送れました」に涙、横の紳士も苦笑い。兄の面会時間は午後なので、友人と会う約束してあったので宮町で途中下車、約束は10時なのに8時前につく、電話を入れると、今朝食との事、それでも30分後にしてくれた。続く・・・棋楽


2014-07-24(Thu)
夏休み自宅教室、「無料」初日。


夏休み教室には10名の応募があり、今日は6名、最初に「植田教室の決まり」説明して、本人に署名して守る事に責任を持たせる。今迄に数校の子供が来ているが、全員が「トイレに行って良いですか」と聞くので、「ダメだと言ったらどうする」・・これは学校で指導しているようだが、これはおかしい。植田教室では行ってきます、これが正解でしょう。
年下の子を呼び捨てにしないの一行もいれたが、ある学校では四年生が六年生を呼び捨てにしたので、厳しく注意した事もあった。もつと道徳の時間を多く取り入れるべきでないか。
ニュース番組にも変な事件が多いのは、今まで教育のせいか、それとも日本人の本質なのかな。
25日はラジオの生放送に出演するために11時30分迄とします。金曜日の76.・5FMの午後1時から30分間、パーソナリティは瀬尾 弘美さんです。一宮周辺の人は是非、聞いて下さい。棋楽
2014-07-23(Wed)
D・{11}大渕秀樹さん「三重県いなべ市」E・3勝、①斎藤正弘さん「北名古屋」


Dクラス、1133点から931点、いなべ市は遠い、くわなや四日市に多く参加していますが、愛岐会員です。大渕さんは9回目の参加で初、11番に投票した人はなしでした、3勝は①坪田和政さん「名古屋市」⑤石田浩史さん「四日市」{11}稲田真一さん{14}宮堂力旗君「岐阜県養老町・小5」の4名でした。
Eクラスだけ14名、825点から377点と点差があったが、4連勝はなしで最後に負けた、斎藤正弘さんを規定により優勝としました。⑤宇佐美優太君「高1」⑥祖父江朝陽君「小6」、あと1人は{14}番377点202局、鈴木二葉さん「あま市・小2」でした、二葉さんは幼稚園の頃より参加、対局態度も良く、今日は537点 562点 583点に勝ちましたが、500点に底上げは、しませんでした。一年以内に800点以上が目標。
あるプロが書いていました、対局態度の良い子は強くなると。このクラスの大人は5名、子どもは全員で21名でした。昨日は事務局は休み?名南・豊橋はアップされていなかったから、今日愛岐会も一緒ににアップされるかも?、今朝は3時に起きて6時にアップを終了させました。
参加してくださった皆様、有難うございました。棋楽
2014-07-22(Tue)
Bクラス・③大河内正男さん「岡崎市」Cクラス・④平野博光さん「稲沢市」


大河内さんは平成6年4月に1978点「28対局」同じ日に棋楽は11947点「27局」だから同時期にアマ連に入会したようだ、現対局数は5160局、東海ブロックでは二位、温厚な方で、自分の対局が終わっても、最後の対局迄立ったまま観戦している体力の持ち主で、2100点を超えた事もある強豪だつた。
平野さんはアマ連設立時からの会員、平成6年6月、四日市で1783点128局、棋楽も出ていて1923点35局の記録が手元にある、現対局数は2800局位、高齢者の人は個人差はあっても点数の下がるの自然でしょう、500点迄下がっても、将棋は指せる。将棋大会に出る意欲が無くならいよう、健康に注意して、愛岐会の最期まで参加してほしい。
三勝者は以下の方々です。
Bクラス、1649点から14324点まで。②伊藤優駿君「名古屋市・中3」{11}加藤陸君「稲沢市・中2」{12}木村野乃花さん「中2」{14}意馬映治さん「小牧市」・・点数下位の人達が好成績です。
Cクラス、①鰐部睦方さん「岐阜市」⑦山田一夫さん、⑩今井千重郎さん、{14}増森昌彦さん「名古屋市」このクラスも順位が下位の人も善戦しています。棋楽
2014-07-22(Tue)
天運、愛岐会に味方する。


昨夜の8時30分頃は、一宮地方は雷雨に襲われ、冠水や停電もあり、これが12時間ずれていたら、今日の愛岐会は、参加人員は半減していた。A・B・C・D・は各16名、Eだけ14名で合計78名が参加してくれました。
勝者当てクイズはAクラス以外は70歳以上の人が優勝しています、1万円は次回に繰り越しとなりました。Bは③74歳、Cも④77歳、Dは{11}73歳、Eは①推定72歳?・・・「11」の人が優勝するのですから、勝負はやってみなくは判らない。
尚、岐阜市・名古屋市以外は県名の表示が無いのは愛知県、市名の表示の無いのは一宮市民の方です。
Aクラスの優勝は、②戸田博士さん、仕事の関係であまり参加されませんが、15年程前に県名人なった強豪です。
3勝は⑥青木一さん「岡崎市」⑧伊藤優君「岐阜県大垣市・小5」{11}松原求さん「瀬戸市」{15}丹羽拓郎さん「名古屋市」の4名の方々です、このクラスは2096点から1664点でした。棋楽
2014-07-21(Mon)
ランキング。

個人競技にランキングがある「サッカーにも?」以下は、ある人ランキング、▲は棋楽の知らない人物。
政治家として、豊臣秀吉 徳川家康 源頼朝 毛利元就 織田信長。
武将として、八幡太郎義家 鎮西八郎為朝 九郎判官義経 上杉謙信 武田信玄。
学者として、本居宣長 新井白石 ▲荻生徂狭 ▲太宰春台 福沢諭吉。
武勇の人として、畠山次郎重忠 本田平八郎忠勝 加藤清正 後藤又兵衛基次 ▲北条左衛門大夫綱成。
謀将として、真田幸村 黒田如水 直江山城 竹中半兵衛 本田正信。・・・・・真田幸村は武将では?
剣客として、宮本武蔵 柳生宗冬 伊藤一刀斎 小野次郎座衛門 塚原卜伝。
名君として、徳川吉宗 徳川光圀 池田光政 ▲徳川頼信 ▲徳川光春。
高僧として、弘法 ▲法然 親鸞 日蓮 ▲白隠。 みなさんはどうですか?。
将棋界について、だれが一番、強かったかは後日に。棋楽
2014-07-20(Sun)
文豪・菊池 寛「1888年〜1948年」


彼は小説家・劇作家・ジャーナリスト・実業家となっていた、文芸春秋の創刊、芥川賞と直木賞の制定して、文壇の基礎を築いた人だった。直木賞や芥川賞を受賞すると原稿料が上がる?
文豪とは何を基準つけるのだろう・・森鴎外・夏目漱石・島崎藤村「とうそん」等の名前は知っていても、現在の人は読んでない様な気がする?棋楽は読んでいない。菊池寛は将棋も強かった「アマ実力五段?」ので将棋界の拘わりもあり、「三吉はん」のことが書いてないかと図書館で調べると全24巻の最後に書かれていた。織田作之助も「勝負師」で書いてある。
一宮七夕祭りは、もう来週だ。棋楽


2014-07-19(Sat)
庭にも個性あるのかな。


昔、隣りの芝生は良く見える、てなドラマか小説があった様な気がするが?これでは誰が見ても優劣が一目瞭然だ、庭に関しては、棋楽は口出しはしない。
28日に一回の糖尿病の定期健診の為に掛かりつけの医院に、今回は血液検査もして、腎臓・肝臓も歳相応で心配する事は無いとの事だつた。来月はお盆休みがあるから来院日に気を付けるよう言われたので、カメラで記録する。
午後からは、女流王将戦を時々観ながら、9四歩の謎を読む。大相撲・野球・サッカー・ゴルフ等は一切見ない。棋楽

2014-07-18(Fri)
二上達也九段「1932年・函館市生まれ」


昭和29年発行のある雑誌に、関東の精鋭に二上六段は上京以来急ピッチで男を上げた。レッテルこそ六段だが、本質は八段の気品がある、二上は自信は強いけれど思い上がりない。その証拠に順位戦で戦後最大の17連勝を打ち立てまだ勝ち続けいることを鼻にかけていない、木村・大山と手渡されてきた「名人位」はいつの日か二上が継ぐのではないか?
1950年・二段、同年・四段、1952年・五段、53年・六段、54年・七段、1956年八段、1973年九段。A級27期、タイトル挑戦26回「名人戦3回」タイトル獲得5回、856勝752敗は立派な成績だ、会長職も長く務めた。こうゆう人に、生きているうちに名誉名人を贈ってほしい。
阪田三吉王将・名人の資料を集めて準備完了、しかし拍手が少ないから、お蔵入りかも。棋楽
2014-07-17(Thu)
愛岐会員、挑戦後の成績。


25年度までは、年初に持ち点から、自分で目標決めて、目標を達成した会員を表彰する制度をやっていたが、4連勝すると、点数を底上げする支部があり今年度から廃止した。底上げしなくても上がる人は上がる、以下がその証明だ。
「年齢・持ち点・対局数・・目標点・現在の対局数」の順。
「小3・860点・164局・1213点・達成300局」「小5・1161点・166局・1513点・現在1520点達成・370局」「小5・820点・217局・1213点・現在1460点・340局」「小6・1188点・64局・1413点・現在1460点・160局」「小6・1648点・333局・1853点・現在は2000点を超えている・417局」ここまで子ども、しかし「68歳・1298点・448局・1453点・1500点を超えたことあり・699局」この中で1人だけ25年度中に達成している。子供は強くなれるがシニアや中年の人は強くならない、下がっても調子が良ければある程度は元に戻る、4連勝で底上げ反対、上げるなら全員を上げるべきだ。
ブログの順位昨日が最高かな?日記部門は、7月1日の参加人員は462883人だったが、昨日は516361人と増えていた、順位は13日に2011位まで落ち込んでいたが、1091位に急上昇していた。ゆとり世代部門は7月1日は11208人が昨日は12582人と増えていて、13日に58位だったのが28位と30人を牛蒡抜き、アクセス数は増えてないので喜びはないがアップする。棋楽
2014-07-16(Wed)
生兵法は大怪我の基。


今は一年生から水泳の時間があり、学年により泳げる距離が決められているため、民間のプール業者は儲かっているらしいが、小学校で水泳を教える必要は無く選択制にすべきではないか。
監視附きのプールでどれだけ泳げても、知らない川や海では泳ぐべきではない。子供の頃に遊び場にしていたのが、宮川橋の下流だつた、背泳ぎ、平泳ぎ・横泳ぎ、抜き手は出来たがクロールは出来なかった、向岸に行くのが冒険だったが、背が立たなくては2メートルでも5メートルでも一緒だ、ここは200下流に子供の膝位の水位になりそこまで流されて行けば安全だつた、また上流に歩いて戻っての繰り返し、河原の石が熱くて、川べりを歩くのだがコケがあり歩きにくかった。上級生や同級生と毎日のように行ったが、保護者は1人もいない。それでも水死したと聞いた事は無い、弟や年下は連れていかなかった、盆を過ぎると母親に泳ぎに行くのを止められたが何故だっただろう。75年ぶりに絵を描いたが上手でしょう「笑」
昔になんと呼んでいたか思いだせないが、泳げない子がキソの上に上がるのが冒険だった。上がれれば、帰りは飛び込むだけで陸地に着くが、上がれない子はキソを蹴って必死になって戻ってくるが、砂地がアリ地獄のようになっていて、上級生が助けていた、近所に4名の同級生がいたが、生きているのは棋楽だけ。
竜王戦の深浦九段対中村六段戦、これを見ないような子供は強くなれない。棋楽
2014-07-15(Tue)
愛岐会の10月の開催日が決まりました。


15日が10月の受付日、事前に知らせて貰っている「江南」と競合しないようにしています。
4日「土」と19日「日」に決定しました。関係者の皆様の配慮をお願いします。
なお11月の1日「土」と2日「日」は愛岐会も一宮こども将棋教室も開催しません。棋楽
2014-07-15(Tue)
東海の鬼・花村元司九段。

木村義雄十四世名人の数多く残した功績の中に、真剣師「賭け将棋」だった、花村九段を付だし五段でプロ棋士にした事と言われている。奨励会の経験のない棋士は花村九段だけだ。その才能と人柄を見込んで、五段を試験を受け合格した「27歳」。
花村九段はAクラス16期、タイトルを挑戦4回「名人戦1回」棋戦優勝3回の実績は見て、木村名人の先見の明には驚くばかりだ。花村九段は人望もあり、門下の棋士は7人いるが、今月号の将棋世界に森下九段の修業時代の話が載っている。
大昔に当時は若手だった、鬼才升田名人と「香香角」の手合いで真剣を指したが、数番指して、あの升田名人が手合いが違うと弱音を吐き、その後は「常香」で指し、夜明けには指分けになっていた、記事を読んだ記憶がある。
ソフト将棋は相手は1500点、角落ちで負け、飛落ちでも負け、二枚落ちで、飛車を振るように7筋から盛り上がると、相手は穴熊に組む、飛車先ががら空きなので、すぐ飛車が成りこめる、と金を作ってせめて楽勝、意味の無いてわ指してきたら勝ち、ソフトは詰むまで投了しないから、そこで終了としている。四日市と江南が午後1時にアップされていたので印刷してパソコンに打ち込む、これが21日の愛岐会の点数とする。棋楽
2014-07-14(Mon)
藤内師匠の棋士の評価「内藤九段」

木村義雄十四世名人は文句なく高く評価した。「あの人おかげで将棋の地位がうんと上がった。将棋が博打「ばくち」の一種くらいにしか世間に認められていなかつた時代のことである、そのおかげで将棋界はすくわれた。私には師匠の実感の一端は理解できたが、今の若い人にはピンとこないだろう。
升田幸三名人「升田の将棋はピカ一やけど、よう威張るからなあ」升田さんとは個人的にも親しかったせいか笑みを浮かべながらそういう。
大山「十五世名人」さんのことは、「ようできた名人や」
原田泰夫九段、原田さんの名前が出ると師の頬がゆるむ、「あの人はシロモノが違う」と言うのだつた。それは大阪流の表現で最高級の褒め言葉だつた、「30代で連盟の会長を務めた」あとに原田さんに会ったとき、「いい師匠に恵まれて幸せだね」と言われたのが心にしみて嬉しかった。関西ではついぞ聞かぬ言葉であつたから。
師は坂田師より七段を認可されていたが、連盟では六段だった、若いときから競り合ってきた中井捨吉さんが貰えて自分がもらえないと気にしていた八段位だった。そに八段位が送られてきたとき、師の意識のしつかりしている間に届かなかったと、無念の思いで私は目の前が見えなくなっいいたが、奥さんが「八段です、八段の免状が届きましたよ」と叫んだ、そのとき師は奥さんの手を握りかえしたという。分かったとのサインだったのである、かろうじてまに合った。
翌日、弟弟子の若松七段とあっているとき、師匠が呼んでいるような気がして2人で車で行くと、私たちを待っていたように危篤状態におちいった。その夜、師匠は私と手を握りあったまま、あの世へ旅立った。昭和43年2月11日、建国記念日の日であった。享年74歳。翌々日、葬儀が行われ、私が葬儀委員長を務めた。
藤内八段の業績欄に拍手してくださった13名の方ありがとうございました。次回は阪田三吉名人・王将を取り上げたいと思っていますが。棋楽
2014-07-14(Mon)
私の愛した勝負師たち。


内藤九段は将棋も強かったが、文章も上手い、藤内八段の業績の拍手は「9」のままだ、このままでは、次に進めない・・
阪田三吉名人・王将。名人の上、升田幸三。天才 芹澤博文。最年少名人、谷川浩司。七冠王、羽田善治、等が書かれている。真説・阪田三吉像を知らせたい。
最新のソフトを入力、相手は1600点で二枚落ちは、上手初手が6二王と指す「ヘボ」で負けた事は無く、角落ちに設定したら勝率が3割位と情けない成績だが、東京道場で指すより面白い。棋楽
2014-07-13(Sun)