平成27年8月31日・曇り時どき雨。


先生に「免許の書き換えは何時ですか?」聞かれて「29年7月です」と答えたら、「それまでは点薬で大丈夫ですよ」、と嬉しい話だつた。この活け花は造花?花の名前は全部知らない。


飲酒運転の受刑者が多いが、プロの運転手「25年間無事故無違反」が、信号を見落としで、赤信号交差点に突き込みで死亡事故を、油断だったとか。・・・・優先道路を走り、一時停止は必ずしている。棋楽
2015-08-31(Mon)
切れ負け戦の必勝法!!??


昨年の東海大会は約1300人、10時開始で2時迄に、決勝戦の二人を決める必要がある。10分キレ負け?
「1」得意の戦法で戦う 「2」相手より時間を使わない 「3」有利になって時間が多く残っていれば、竜や馬を自陣に引付て攻めていかない 「4」入玉が出来る時は駒損しても、入玉して「と金」を作って時間きれを待つ 「5」終盤になれば、意味のない手を指して時間を、使わない 「重要」相手が時計を押し忘れていても教えない。駒の並べた方の手つきを見て、弱そうな子は攻めつぶす・・時間は必ず多く残す。「早く勝てば」次に対局しそうな子供の将棋を見る。
ネット中継は、いつもの事だが、子供なのに、敬称は「さん」ずけだ、男子なら君にすべきだ。
国会議員の記名投票では、女性議員も「君」と呼ばれていた。?棋楽
2015-08-30(Sun)
敗戦70年「8」死者の埋葬「まいそう」

昭和21年1月中旬より、寒さと栄養失調と連日の重労働により死者が発生した。私も2月より3月にかけて数回、埋葬作業の指揮をとった。2月の中旬ころまでは医務室の廊下にあった裸の死体は3~5体程度で、その都度、健常者一個分隊ぐらいで、収容所より20分ぐらいの雪の原っぱに、「十字くわ」で凍土を約数10センチ堀り埋めていたが、2月下旬ごろになると段々と死者は増加し、医務室の廊下はカチカチ凍った真っ裸の死体の山となった。少なくとも10体以上を数えた。段々と作業の疲れから、埋葬作業に出る兵隊も少なくなり、また死体がどんどん増えて来るため、固く凍った凍土を掘る作業ははかどらず、3月に行った行った埋葬作業は、2メートル余り積もった雪を掘って雪の下に埋めるのがやっとだった。
3月に収容所が閉鎖され、我々はチェルナゴルカの炭鉱作業に移ったが、6月ごろになると、我々が埋めた死体は雪解けと共に地表に出て誠に目もあてられない地獄絵となった。我々がが埋葬作業をした場所は谷川の河原であったらしく、雪解けの水で全部がむき出しになったとか。イシベスコーワヤの伐採からまたこの死体の為、作業隊がトランスワールに向かったと聞いた。今この埋葬場所がどうなっているかと思う。医務室の廊下にコチコチの死体の山があり、何時わが身がこのようなコチコチの死体となって、この異郷の地に埋められるかと思いながら、戦友を零下40度前後の寒さの中で埋めた埋葬作業は今もって脳裏に浮かびあがってくる。
この埋葬地に埋められた100数10人の霊のとこしえに安からんことを祈ります。村田さん。・・・・・棋楽
2015-08-29(Sat)
王位戦。


中日新聞は一面・この人・社会面にもとりあげていた。社会面の巧みな終盤術を発揮な表現がピッタリの熱戦だつた。強い人は観たと思うが。腰掛銀を指す人は、この将棋を、棋譜を見なくても、並べたられるように、ならなければ強くは成れない。
「奥」が葡萄狩りに行ったので、木曽川図書館で、5時間は過ごす。棋楽




2015-08-28(Fri)
昭和は遠くなりにけり。

戦後生まれが、8割を超えたと言われている、8月に14名に将棋関係者にアンケートをお願いしました。漢字の読み方と職業。
美空 ひばり 山本五十六 吉田茂 大山康晴 石原裕次郎 吉永小百合。
全問正解は4名、大人の男性が2人と母親 70歳の祖母、男性は教育関係の職業。
6年生 山本五十六 吉田茂 石原裕次郎 吉永小百合を知らなかった。中2 大山康晴と吉永小百合だけは知っていた。
9人が山本五十六を知らなかった。敗戦時は棋楽は3年生だったから知らなかった。殆どの人は「本」か「映画」で覚えたのだろう。
珍解答・・山本五十六「作家」 石原裕次郎「探偵」・大山名人を知らない強い子もいた。棋楽
2015-08-28(Fri)
夏休み自宅教室「8日目」無料。


最初に、有利か不利の見方の講義、駒の損得 駒の働き 王の安全度 手番 ・・相手が指してもすぐ指すな、盤面全体を良く見て指す等、強くなる常識だが、棋楽の講義を守れば強く成れる。考えない子は強くなる速度が遅くなる。1200点ぐらいの子どもが5名も来たが二歩もあれば、頓死もあった、5分も使わず負けた子もいた。これらを経験として、次の対局に生かす事が出来れば強くなれる。


弁当を作り、送り迎えをしてくれる保護者に、「有難う」と言える子どもに育ってほしい。最後は1分切れ負けのお遊び時間、無邪気にはしゃぐ6年生はやっぱり子どもだ??棋楽
2015-08-27(Thu)
敗戦70年「7」国境を超えた人情。

1945年11末、カピヨーワ駅からトラック輸送で、吹雪の中をギードロという所に着いた。馴れない猛烈な吹雪と寒気の続く中で、兵隊は皆弱っていた。吹雪で夕食の黒パンが届かないので、兵隊を民家に分散し、そこで夕食をとらせるというまであった。私は女性2人と男の子の三人家族で、犬が一匹いた、家に案内された。男の働き手がいないのは、戦争の余波をやはり受けている家族のように思われた。いつもの馬糞のやうな黒パンよりは、少々ましな黒パンであった。床の蓋を上げてニンジンを取り出し、ナイフの背で皮をしごいて、ぶつキリにして食べろと言った。野菜不足の私には、大変ありがたい栄養源であり、大変うまかつた。硬く圧縮された蒙古茶のようなものを、ナイフで器用に使ってきざみ、椀に入れてくれた。牛乳も砂糖もある。こんなご馳走は1ケ月みたことも、口にしたことも無かった。砂糖を牛乳に入れようすると、牛乳がまずくなるから止めろ、お茶に入れろと手伝ってくれた。
室内の照明は薄暗かったが、家族を交えた温かい、こんな明るい雰囲気の中で贅沢な夕食を戴けるなど、夢にも思っていなかった。後から思うと、シベリア抑留中、この恵まれた夕餉が、後にも先にも唯一の機会であった。私に何歳なのかとか、父や母が心配しているだろうとか、盛んに話しかけてくれた。温かい雰囲気の中で、人間に生き返る事が出来たひとときであった。
朝、腰の曲がった老婆がバケツ一杯のふかした馬鈴薯を重そうに運んできた。皆で食べくれと言うのだった。湯気の立つ馬鈴薯を分け合って頂戴した。こんな美味しい馬鈴薯は生まれて初めてであった。彼らロシア人にとって、年間を通じての大切な食糧である事は、後でロシアの食糧事情を知って貴重なものだとつくづく思わされた。まして雪深い冬季のそれは、命と引き換えのような物であった。爺さんが「そのうちに日本人がこの部落へ上がってくるから、馬鈴薯を用意して食べさせてやってくれ、殆ど腹を空かせていると思う」と妻である老婆に頼んだと言うのであった。爺さんも来たいのだが、身体の具合が悪く寝ているので、よろしくとのことだった。
爺さんはかって、かって戦争のおり、捕虜として広島で過ごした。その時に日本人から大変親切にして貰った「恩」があるとゆうのであった。1人の男が、牛の肉を煮て、湯気だらけのまま抱えこんできた、昨夜に衛正兵が渡した薬が効いて、娘が回復したお礼だった。密殺の牛の肉であろうが、味には変わりはなかった。1ケ月以上も口にしなかった、動物性蛋白質を、皆で分け合って、大事に大事に噛んだ。誰も彼も、いつまで噛んでいた。藤森さん
カテゴリは「敗戦70年」を新設した。棋楽
2015-08-26(Wed)
愛岐会夏休み教室・7日目。


10名が参加、信じられない話だが、1ケ月で、200点近くも上げた子がいる。対局数が400を超えているから、急には強くは成らないのだが、棋楽の指導が良かったのかな「笑」
夏休みも今週で終わり、9月から二学期、一宮こども将棋教室と開明小学校の部活が始まるのも楽しみだ。棋楽
2015-08-25(Tue)
愛岐会の17年間。


発足時の苦労等は「愛岐会の歩み」のカテゴリにアップしてある通りだが、62歳から運営に専念してしまった。何故だか判らないが、後悔はしていない。全盛期のころは80名を超えた事もあったが、今は参加してくれる人は少なくなってきたが、気にしていない。10年ほど前に、回転すし屋で娘夫婦と食事中に、気を失い、救急車で運ばれたが「脳に異常なく、その日に返された」その2日後に愛岐会にも道具を運んだが、娘夫婦も付いてきて、午前中で「ムコ」の車に乗せられて、強制退去させられた。
昨日は419回だつたが、楽しみにして皆勤している。29年の7月が免許の書き換え、その日迄は続けていきたい。
今迄協力してくれた方々に感謝を、参加してくださっ皆様に心よりお礼を申し上げます、有難うございました。棋楽
2015-08-24(Mon)
対局王、松原求さん「瀬戸市・79歳」の将棋一筋の人生。

平成10年8月22日が愛岐会の第Ⅰ回に参加した時が1591局、昨日の対局を含めると8510局、17年間で6919局対局している。
これを17で割り、12で割り、4で割ると、「8・4局」となる。
東海ブロックの二位は5352局の大河内さんだが、松原さんより少し若いだけ、加藤さんと言う強い人もいるが、最近どこの例会にも参加していない。あと1人5185局の人がいて、年齢もひとまわりは若く、月に8回は参加しているが、3300局の差を追い抜くことは不可能に近い。定年後に好きなように事をしてで生きられる人は、幸せな人生だろう。棋楽
追記 17年前1840点 23日1827点。
2015-08-24(Mon)
第419回例会・指運の良かった人達??


Cクラス、1388点から1212点の12名。③加藤宗彦さん「岐阜市・75歳」は若い頃は四段、14回目の参加で初、このクラスなら、毎回優勝候補かな?・・三勝は⑤地下好さん「北名古屋市」 ⑥海老原綸君「名古屋市・5年」 ⑩平野博光さん「稲沢市」の3名。
Bクラス、1635点から1398点の14名。⑥鰐部睦方さん「岐阜市・38歳」 皆勤で2回目、7月にも優勝している、1700点のを目指してほしい。三勝は⑨細谷雅之さん「名古屋市」 ⑬緒方麻明知君「北名古屋市・6年」 ⑭橋爪馨さん「春日井市」・・⑤番までは2勝ち以下、点数順位下位の方が成績が良かった。
Aクラス、2194点から1656点の14名、4連勝はなし、③今井絢さん「名古屋市・中2」 ⑦坪井康宏さん「名古屋市」 ⑧松原求さん「瀬戸市」 ⑭稲波万治さんと、このクラスも⑭番が3勝していた。
Dクラス、1209点から1042点の12名、4連勝はなし、①工藤莞二さん「稲沢市」 ③犬飼至吉君「6年」 ⑤大口岳流君「6年」
⑨蟹憲行さん「安城市」 ⑪中山賢さん「尾張旭市」の5名も出ました。
Eクラス、960点から392点の8名、①永田聖弥君「6年」 ②宮堂孔暉君「岐阜県養老町4年」 ⑤平尾栄治さんの3名でしたむ、392点の人は2勝しました。
5時に起きて、朝食を挟んで8時に完了する。棋楽
2015-08-24(Mon)
アマレン300号記念大会速報。




残暑きびしい中、2194点から392点の60名が参加して5クラスに分かれて熱戦を展開、4連勝の出たのは、2クラスだけでした。
各クラスの2勝以上に贈られるアマレン賞はA 松原求さん「瀬戸市」8506局、B 橋爪馨さん「春日井市」3306局、C 平野博光さん「稲沢市」2885局、 D 蟹憲行さん「安城市」3866局、E 稲田真一さん「一宮市」に決定。写真上が松原さん。
橋爪さん。平野さん、稲田さん、蟹さん。・・松原さんの8506局の対局数は東海ブロックでは不滅の記録だ。一月に「4回」参加して月に16局、一年で192局、10年で1920局、・・・アマレン300号は25年間だ、どの様にて達成したのだろう。棋楽
2015-08-23(Sun)
敗戦70年は継続。


敗戦70年は拍手が「3」のだったので最終回としたが「7」となったので継続する事にした、しかし、週に1回くらいにする。
同窓生の案内の文が斬新なので紹介する。
みんな元気かな ? 元気だよ!と返ってくる。
エッツ! なに驚いているの? 君がこれからの人生、お釣りだと言ったから、気が楽になったのだよ。
それは良かった。でも、悪い処だらけだよ! 分かっています。
三大英傑でも、我々の年齢の時は存在しなかった。
生きているだけで、儲けものですよ。 そうか生きているだけで、儲けものですよ。
そうか生きているだけで、丸儲けか? 生きていることに、手を合しましようよ。
タノムよ 今年も幹事なんでなあ! この男性は万年幹事。棋楽
2015-08-22(Sat)
中学校の同窓会の案内が届く。


開催日は11月14日「土」で10月20日迄に必ず お知らせ下さい。とあつたが、生きていれば必ず出ますと書いてポストにいれた。
伊勢市立宮川中学校は、早修小学校と中島小学校が統合した中学校、同窓生は352人、「現在は全学年で300人もいない」特に我々が通った早修学区は過疎の町になった。中島小学校に吸収されるようだ。最初に案内が届いたのは60歳の時で平成八年?それ以来皆勤しているが「4人だけ」、参加者が固定化して減少しつつある。平成13 15 16 17 18 19 22 25 26年、19年に2年おきにする案が出されて、猛反対したが成立した。25年から毎年開催するように変更された。17年に45人だったが昨年は36人に減っていた。
この前に、開催日を早く決めて、早く知らた方が参加する人が多くなると注文したが、これだけ早ければ、出たい人は日程を調節できるだろう。本当は5月の後半が理想的だが・・・幹事をやらないから無理も言えない。棋楽


2015-08-21(Fri)
将棋雑感。


羽生名人の凄さ。今年は北浜八段に負けたが、NHK戦は30回出場して10回も優勝している事だ、短時間のトーナメント方式の勝ち上がりは、タイトルを防衛するより難しい。短時間の将棋では、番狂わせが出易い、北浜八段は朝日オープンでアマに負けた。
勝ち数が歴代二位と言っても大山名人の時代とは、棋戦の数が違う、比べるなら勝率だろう。
30分30秒ならアマ強豪なら、羽生名人に勝てる人もいる筈と信じている。
昨日の王位戦は広瀬八段の作戦が失敗にしても、羽生名人は鮮やかな指し回しだった、最初から3回観た。相穴熊戦は居飛車穴熊が有利が定説で、藤井システムが出来た様な記憶だが、良く覚えていない、終盤の力の強い方が勝のかな。棋楽
2015-08-20(Thu)
敗戦70年「最終回」親切な人もいた。

収容所から金山まで1キロ足らずだったろうか・・。疲労して体力のない私達は苦しい地獄坂だった。しかも情け容赦なくすざましい唸りあげて強風が我々の進路を妨げることが多い。或る日金山で作業中に堪らない腹痛に襲われ、遂に監督に言って休息をした。休息と言っても別に部屋があるわけでなし、私は、コンプレッサー室に入って大きなパイプが暖かかつたので、それを抱くようにうつ伏してしまつた。ソ連人の労働者で、コンプレッサー係りのおばさんが、腹痛の薬をくれた。コップに水を入れて持ってきてくれた。スパシーボー「有難う」と言ったが、お大事に・・・・といってくれるような眼差しに受け取れた。心の底から、嬉しく有り難い気持ちがした。熱に浮かされ痛みに麻痺したようになつて、痛みに耐えながら休んでいるうちに、深い眠りに落ち込んいた。眠りから覚めて、気だるさの中でふと横を見ると、薬をくれたおばさんが立っていた。ハラショウ スパシーボー「良くなった、ありがとう」と言ったが、彼女はうなずいただけだった。今も、あのやさしい顔が浮かんでくるような気がする。西森さん。
戦争未亡人シューラ―さん。ソ連人にしては背の高い方でないが、骨格のしっかりした、たくましい感じの女性だった。一見肌ざわりのいいようでなかったが、茶木中尉と交代するとき、彼から「彼女の主人は独ソ戦争で戦死している、良く話してくれる親切な人だ」と聞いていた。はじめに「茶木が病人になったので代わりきた」と自己紹介した。うなずいて、茶木中尉の病気はどうなのかといった見舞う言葉を言葉をくれた。カタコト混じりのロシア語で、精いっぱいの苦心して、戦争で亡くなられた事のお悔やみを述べたが、その時彼女は瞼をうるませて「ワイナー ニハラショー」「戦争はいけない」と言った。二人の子供があり自分が1人て働いているという。
短い言葉の中に戦争を怨みなくなって主人を思慕する感情を顔面にただよわせているようだった。おそらく彼女には、茶木中尉が病気で倒れた同情と、収容所で日本人が次々死んでいる事と、主人がどこで、どんなにして死んだのであろうか・・戦争を憎む情は、我々以上に燃えたぎっているようだった。
1992年9月の最初の墓参の時に、彼女の家を訪ねている。写真の下にたくさんの人がお世話になった。と記載されている。
前回の拍手が「3」の為に今回が最終回。棋楽
2015-08-19(Wed)
敗戦70年「5」


「ダモイ ダモイ 帰還」と騙されて連れて来られたのが、シベリアの中部、金鉱山トランスワールであった。着くまでに2カ月余かかり11月の下句になっていた。数10キロの雪道を歩かされ着いた所は山の中の収容所だった。一面の雪野原。2000坪位の広さで四隅に望楼が建っているがその他には建物らしき物はない。どうなることかと思っていたら、ソ連兵は雪の下に宿舎があると言う。手分けして雪を掻き退けて4メートル位掘り下げら入り口が見つかった。中は真っ暗。以前は囚人の収容所だったらしい。窓の外は雪の壁である。苦労は武装解除された日から始まったが、決定な悲劇は此処を舞台として展開されたのである。①の人、鬼頭さん。
地獄絵巻の現出。最初は死者の埋葬は金山に行かない軽作業者の仕事であつた。衰弱した身体でコンクリートのような凍土を掘ることは容易ではなかつたが、戦友の為と痩せた身体に鞭打って細々と続けられていた。しかし故障者が続出しい埋葬が間に合わず、死者は裸のまま収容所の廃屋に積み上げられるようになった。中略。火の気のない宿舎に骨と皮となって目ばかりギョロギョロと光る衰弱者が板の上に横たわり、1日2回の給食の際、飯盒の音がガチャつく以外は物音ひとつしない静寂と絶望感が収容所を覆っていた。中略 軍隊の組織は麻痺状態になり、飢えた兵隊がパンとの交換に死者の金歯を叩き折る、隣の戦友が死んでも申告せず二人分の食事を狙って死者と数日暮らす、炊事場の湯気に紛れてスープを盗もうとする者、等地獄絵巻が現出した。2月の死者は60名に上がった。編集者
死亡者についての考察。ソ連抑留者は約60万、死者は5〜6万人と推定されていたが、ソ連は1956年に僅か3597人と言い張ってきた。1991年4月18日、ゴルバチョフ大統領の持参では3万8647人となったが、真相は依然として藪の中である。
トランスワール収容所「ゴルバチョフ名簿」12月8名 1月33名 2月61名 3月54名 4月6名 5月記載なし 6月2名 合計164名。2月の死亡者の続出に中央から視察に来て収容所の閉鎖を決定したが、時すでに遅く3月に54名も死亡した。
ゴルバチョフ名簿にない死亡者。1月から断続的に下の診療所に転送された者及び3月にアカバン送りとなった約50名中相当な死者が出たと推定されるが、掌握できてない・・・ゴルバチョフ名簿に未掲載は少なくとも40人は超えると推定される。
入所当時、ソ連側には紙もインクもなく、古い小説本の上に、日本軍医局にあったうがい薬の二酸化マンガンを水に溶かしてインクとし、大きな字で書付ていた。医務室から送付される死亡記録を、佐藤少尉立ち合いの下で、死亡年月日順に原隊 階級 生年月日を記入していた。榊原軍医大尉、佐藤少尉はそれぞれ死亡者名簿を日本側記録として大切に保管していたが、3月末に没収された。私の判断。トランスワール収容所内の死者 168名「確実」 ギートロスタンイアでの死者 10名「確実」下の診療所での死者 約20名「推定」現地人の話と入室者の話を総合して推定。従ってゴルバチョフ名簿164名プラス未掲載者推定40名と総合的に考えて、トランスワールにおける約4ケ月の死者は200人を超えたと思われる。死亡率は26、6パーセントとなり、アバカン地区で最悪であり、全シベリアの収容所でもこのような事例はないと思う。我々は。結果論ではあるが、組織的な嬲り殺しに遇っあったと言っても過言ではない。佐藤さん。亡くなられた方々に合掌。
写真の女性は、抑留者の方々に親切にしてくれた人。拍手が「4」以上あれば連載する。棋楽
2015-08-18(Tue)
愛岐会夏休み教室・6日目。


扇子は3人の子供が持っていた、タイトル戦の対局者のサインがある、3本とも羽生名人のサインがあった。棋楽は扇子は持たないが、扇子もって指す場合は、扇子を持つ事によって 「手拍子指さない、確認してから指す」事を心掛ければ効果はあるだろう。
30分30秒で対戦しているが、早く負けてしまう子もいる。時間を使って、確認してから指すようにと指導はしているが・・・
1日に6・7局を考えて指せば、思考力と脳の活性化に役立つ、これが受験勉強の時に必ず役立つた゜ろう。
今日は3局指して、3点上がった「笑」棋楽


2015-08-18(Tue)
日記部門が906位になった!!。


日記部門は48万0493名が登録、前日は1293位だったが「70」アクセツで906位となっていた。定期愛読者「笑」は50名ぐらいだが、愛岐会の後はアクセス数が増える、今月の最悪は9日の1533位、また1200位台に戻っても悲観はしない。
午後に愛岐会と江南がアップされた。20名程の人が連続参加しているが、高齢者の人が多いが、この人達は幸せな人達でしょう。
愛岐会の皆勤者は9名、このうち2名は23日は都合で参加出来ない。残った7名の中で6名が年金生活者ですよ。棋楽
2015-08-17(Mon)
敗戦70年「4」

この本は1992年11月に発行、市販はされていない?当時の会員は39名 住所 氏名 電話番号も記載されている。敗戦時に25歳とすると、今年95歳、おなくなりになられた人も多いとおもいます。
骨と皮の内務係。収容所到着直後、私は曹長だったので収容所の中隊付内部係りになった、毎日、本部から伝達されてくる作業割り当てにしたがって、金山何名 除雪何名 便所掃除何名とかに割り当てていた。入所当時は体力もあったが、それも1週間ぐらいで定量の二分の一しかない食料で続々栄養失調になり、作業割り当てが日増しに困難となった。飢えの進行と同時にシャツ サルマタ 靴下といったいつた下着類の盗難も増えてき、夕方の炊事場で命の綱のカーシャ入りの飯盒が盗まれることが多くなってきた。皆、頬はコケ眼ばかりギョロつく餓鬼になっていった。入所以来入浴は一度もなく、シラミが身体中にとりついて、なけなしの血を無数のシラミに吸い取られる毎日となつた。半死半生の兵隊にとりついていたシラミは、冷たくなるとゾロゾロと這い出して隣の兵隊に取り付くので、シラミの動き方で兵隊の生死が判るのだった。中略 文字通りトランスワールは生き地獄だった。作業要員がいなくなり、私も作業に出るようになった。「中川さん、只今帰ってきました」と隣に寝ていた人に声を掛けたら冷たくなっていた。寝ている兵隊に「オイ起きろ。作業だ」と言って揺り動かすと冷たくなっていた。2月になり元気だつた私も体力、気力の衰えをひしひしと感じるようになつた。うかうかしていると自分の番がくると、我が身に言い聞かせて、気力が萎えてくると、頬を叩き、つねって気を盛り立てていた。3月になり、今思い出しても身の気のよだすようなトランスワールを後に半死半生の身体を引きずってギートロに向かった。佐藤さん。
忘れ得ぬロシア人。ドウラ軍医中尉。収容所の女軍医で、背が低く良く太った30歳位の女性だった。大変な癇癪持ちで、宿舎を巡回しては汚いとカンカンに怒り、ある将校は怠情をなじられ、頬に唾を吐きられたことがあった。私達は大いに彼女を敬遠していた。ある時私はシラミ消毒のため柵外の減菌所に同行した。私はウンザリして一日の平和を祈った。しかしこの時は機嫌が良く、いろいろと話合つた。話してみれば彼女とてもそう悪い人でないようだ、それどころか意外にも兵隊の味方であることが分かった。彼女はトランスワールで兵隊が病み衰え死んでいく見て心を痛め色々な悪条件が重なってにしても上官の無為無気力が我慢できないと言うのだった。そして彼女は自分がうるさがられていること知っていて「無事で帰国したとき私の気持ちを分かってくれる人もいるでしょ」と寂しそうにつぶやくのであった。ソ連警備兵が女性中尉のドウラを侮り、彼女の命令を聞かない事があった。彼女はは私を呼び「高山少尉、この兵隊に私の命令に従うよう伝えよ」と厳として指示した。驚いて私が指示するとかの兵隊はニヤリとして「ハイわかりました少尉殿」と真面目くさつて敬礼するのだつた。警備する者される者の立場は違ってもそこには捕虜に対する侮蔑はなかった。春に近づいたある日の夕暮れ、ドウラ中尉の宿舎から素晴らしいソプラノの歌声が響いてきた。この日彼女の歌うったサンタルチアは格別で周囲の山野に響きわたった。私達は彼女の歌に遠い祖国を偲んだ、涙をうかべる人もいた。癇癪玉を破裂させて怒鳴りまくっていた彼女も、捕虜一人ひとりの身を案ずる優しさがあった。この国に権力を盾に私利を貪る悪い者もいたが、精一杯仕事に励み、しかも純朴で常に快活さを失うことのないある種のソ連人も多かった。彼女もまさにその仲間の一人であったと思っている。高山さん。
コメントくれた方に、ブログでは返信でない未熟者です。a11b22c33z7788zz@pony.ocn.ne.jpに連絡ください。
二等兵 一等兵 上等兵 兵長 伍長 軍曹 曹長 准尉 少尉 中尉 大尉 少佐 中佐 大佐 少将 中将 大将、敗戦は小3だったが、覚えている、アメリカは准将もいた?日本軍にはなかった。棋楽
2015-08-16(Sun)
Dクラス、⑩井原諒太君「岐阜県・北方町・中2」 Eクラス、⑦大橋正季君 5年。


Dクラスは1188点から1029点迄の10名、井原君はアマ連は5回目の参加で過去は3勝が2回の実績、今回は①と③に勝っていたので1200点に本人の意向を聞いて変更した。愛岐会は子どもの場合は点数を修正するが、大人はしない、大人は好調とくじ運で好成績を上げる事もあるが、強くは成らない。子供の時も本人には無断ではしない。3勝は③伊藤雄太君「三重県鈴鹿市・中2」 ⑥石田和暉君「岐阜県北方町・中2」の2人、大人は三人だけだった。
奇跡が起こったEクラス996点から330点の10名「笑」 大橋君は開明小学校の将棋部、夏休み教室員だが、過去は9回参加して7勝とまだ572点、三戦目の将棋は優勢な将棋を必敗の局面にしてしまった、1手詰、入玉模様になり、8三金と打てば詰んでいた、それを8二桂と打った、これでも詰みと思ったが、自陣に馬がいるのを見落としていた、大橋君は馬がいる事を知っていて、桂を取って馬が守りに効いて大逆転、それを指摘したのでその人は大ショック、4局目も負けてしまった。この様な時は知らせ無い方が親切なのかな?4戦目の相手は①③④番に勝った、961点の河合孝一さん「豊橋市」と対戦、とても勝てる相手では無かったが、どうした事か勝ってしまった。330点の人も2勝で全敗はなしの大乱戦でした。
以上で優勝者の紹介を終わります。全員に拍手をお願いします。棋楽
2015-08-16(Sun)
Bクラス、③服部修平さん「高専4年」 Cクラス、⑧今村 圭君「名古屋市・小5」


Bクラスは1611点から1384点までの12名、服部君は自宅教室の生徒、人柄も良く一宮こども将棋教室の講師も依頼している好青年。12回の参加でこのクラスでは初、3勝は②二ノ宮秀洋さん「津島市」 ⑦富井敏さん「犬山市」 ⑨細谷雅之さん「名古屋市」の3名。
Cクラスは1366点から1205点の12名、圭君は3年生の頃より、地下鉄と名鉄を乗り継いで参加しているシッカリした子、3月にDクラス、で8連勝したので点数を引き上げので現級では苦戦、8回目での優勝でした。3勝は②天野一雄さん「日進市」 ⑦小西二三夫さん「稲沢市」 ⑨平野博光さん「稲沢市」の3名でした。棋楽
2015-08-16(Sun)
Aクラス、優勝、高田明浩君「岐阜県・中1」

このクラスは①2258点から⑭1715点の14名、3勝は②青木一さん「岡崎市」 ⑩六車友平さん「名古屋市」 ⑬加藤清隆さん「瀬戸市」の3名でした。
高田君は昨年8月に奨励会6級で入会、現在は4級に昇級、12歳で4級以上は一人だけ「二段」・・15歳の初段が3名います。1年で2級づつ上がれは初段は中学生で達成、しかし奨励会はそんなに生易しいものではありません。最近は1勝2敗が3回続いている。
将棋ソフトの「激指し13」を購入して、相手を最強設定にして、今流行の戦法で戦い、定跡を覚える必要があると感じた。明浩君の能力ならすぐに覚えられるでしょう。1日5時間以上を、毎日研究にあて、納得してから、奨励会で採用すれば、効果テキメン?
18歳までに三段に上がるのはこの方法しか無いと信じている。とても中1と思えぬ雰囲気を持つ少年です。棋楽
2015-08-16(Sun)
第418回例会速報と、11月の開催日が決定しました。


優勝はA①番 B③番 C⑧番 D⑩番 E⑦番となりAクラス以外の①番は2勝以下の大混戦となりました。4クラスは中学生以下が優勝していました。猛暑の中参加してくださった、58名の皆様有難うございました。


15日は11月の受け付け開始日、今朝はテニス場の事務局の職員にお願いしました。今迄開催が決まっている、桑名・四日市・江南・小牧を避けて予約がとれました。11月7日「土」と22日「日」、みなさま宜しくお願いします。
次回は8月23日「日」は愛岐会17周年にも当たります、宜しくお願いします。棋楽
2015-08-15(Sat)
敗戦70年「3」忘れ得ぬロシア人。

ギートロの生活は、私達にとって捕虜生活の第一歩であると同時に、彼等ロシア人にも初めての体験らしく思われた。その後の捕虜生活の体験と比較して考えてみても、この収容所の処遇はかなり高かったように思える。特にソ連軍関係者、労働管理監督者の意識も高く、「勿論他所と比較しての事だったが」、一緒に働くロシア人も素朴純情、捕虜に対して差別をみせるような事は少しもなかった。
グルシコーフ収容所所長、独ソ戦で負傷した傷痍軍人で、年齢40歳ぐらい、右手は戦傷で力が入らず、やっと字が書ける程度であった。軍服は着ているが古ぼけていて風采は良くない。ただひとつ彼が他のロシア人と違うところは、奥底に光る炯々たる眼光だけだった。彼にたいしては民間人はもとより、警備隊の中尉もピリピリしていた、所内では彼がいるときといないと時はロシア人の雰囲気か違っていたが、私達には優しく、話す時もゆつくりと何度も繰り返してくれた。作業が終わり宿舎に帰った私達のところに毎日のように現れ、いろいろ話しかけてはジッと耳を傾け私達の話を聞いていた。そして短時間のうちに私達の名前を殆ど覚えしまったのには驚いた。彼はロシア人を叱る時は、凄い剣幕で罵倒するが、私にはしずかに理非を諭すというふうで、決して声を荒げたことはなかった。部下たちは怖いもの知らずで、彼にタバコをねだった。すると彼は喜んで持っているタバコを全部兵隊にやってしまう、そしてなおもねだられると、ポケットを裏がして見せて、ホレ、このとおりだよ、とおどけてみせるのだった。
昼休みは時間は彼は私の教官である、ノコギリや斧の使い方、木を割る時の木目の見方、伐採時の木の倒れる方向の見方などを実地に教えてくれた。彼は右手が殆ど利かないから、ノコギリや斧を実際に使って見せるときは、ひちらが気の毒と思うこともあつた。ある時、食堂の女の捕虜用食糧品の横流しが見付かった。その時彼は全員の見ている前で、その女を怒鳴りつけ、掴み掛かるばかりの形相で締め上げたので、私達は日頃の鬱憤を晴らす事が出来た。アバカンに向け出発する朝、「君達は能率は低かったが、みんなよくがんばつた。当分帰国は無いだろう」としみじみした調子で話してくれた。私はその時、肉親に別れような愛惜を彼に感じた事を覚えている。高山さん「当時23歳」・・・あと3名の名前あり・・伐採は金鉱山より楽だつた。棋楽
2015-08-14(Fri)
敗戦70年「2」

6名の方が関心を持ってくれた。代表者の序文から引用。私達750名は、シベリア鉄道の小駅に下され、約100キロにも及ぶ吹雪の道を難行苦行の末、11月末にトランスワール金鉱山収容所に入れられたのである。悲劇はここで翌年3月迄の間に繰り拡げられた。
労働環境は、極寒と粗悪な食糧に加えて苛酷なノルマ制によって、劣悪極めた。たちまち栄養失調は全員に波及し、やがて死者が続出する最悪の事態となった。生きている者も、自己の命の灯を辛うじて保持し得る程度にまで困窮し、仲間を埋葬する作業員にも事欠き、死者はむなしく廃屋に山積放置されるに至った。昭和21年3月上句に至り、ようやく事態の深刻さに気付いたソ連上層部は、全作業の中止を指令したが、時すでに遅く、疲れ果てた仲間達の死亡はその後も続いた。「中略」平成三年四月、ゴルバチョフ名簿公表された。
それによって、私達の地獄谷トランスワールの惨状の片鱗が改めて確認れた。死線を越え、辛くも生還したかっての戦友達が相計り、この機会に、埋もれた記録を発掘し後世に伝えるべくトランスワール会を発足させた。投稿されたいずれの記録も、真実に溢れ、私達の心に迫る。かって寝食を共にした200有余の仲間たちは、自分がわかくして白骨にならなかつた理由を永遠の沈黙の中に閉ざしている。生き残った私達は、彼らの憾みを後世に伝え、彼らの悲しみを語らねばならぬ。そして、それこそが凍土に果てた戦友の冥福を祈る唯一の願いであると信じるものである。代表 榊原さん。
②トランスワール、この言葉を聞くと私の心は鉛の湯を飲んだ様に暗く、重く、なんともやり切れない気分に襲われる。中略
12月半ばの頃、夜の八時過ぎにやれやれ休もうとした時、佐藤少尉「通訳」がソ連兵と共にやってきた。「スマンけど 20名ほど出してほしい」 「疲れているのに夜遅くナンダと思っているのだ」とやりあったが、シブシブ部下20名つれて出た。ソ連兵は死体置場の廃屋につれて行った。其処にはソ連の将校が紙切れ持って待っており、12の死体を雪の上に並べるよう命令された。廃屋の窓ガラスは割れ、扉は倒れており、吹きさらしの中に裸の凍った死体が積み上げられていた。「アッ、シマッタ」と思ったが、運が悪いと諦めて、仏様達に「カンベンしてくれよな」と心でおがみながら雪の上に並べたが「明日は我が身」との思いが脳裏をかすめてゾッとした。珍しく月が皓々と照っており、仏様は皆黒色に近い褐色をしていた。名簿の照合が終わると「約700メートル離れた墓地に運べ」と言う。仏は骨と皮に痩せてはいたが、意外に重く2人かがりで10歩運んで休み、20歩運んで休み、「ダワイスカレー・早くしろ」は毎度の事と聞き流しながら漸く運んだ。墓地は昼間に身体衰弱者によって掘られていたが、凍土はコンクリートより固く、体力ないので申し訳程度の深さしか掘れていなかった。それからどうしたか言いたくない。ハッキリ覚えている事は「若し生きて日本に帰ったら、この光景を映画にしてやる」と決心した事だった。帰りは誰も一言もしゃべらなかった。皆同じ思いだったのだろう。長谷川さん。
ソ連兵も命令でやらされているので、責任は無い。棋楽
2015-08-13(Thu)
愛岐会過去の8月例会。

17年 13日 53名。 18年 16日 68名。19年 16日 85名。20年 78名。21年 16日 70名。22年 15日 87名。23年 14日 68名。24年 11日 72名。25年 10日 78名。26年 10日 49名「涙」
19年と22年は脇八段が来てくれた時かな?25年は愛岐会15周年として、長澤女流四段とアマ強豪の忠宏氏を招待した。
今年は15日で敗戦の日だ、12時に時計を止めて「黙とう」をすべき・・・
甲子園大会は12時に試合中でも、試合を止めて黙とうしている?「15日は録画して確認する」・黙とうなんかは強制するものではない。
昨日の「敗戦・70年」は連載しょうと思っていたが、反応が少ないので保留とした。棋楽
2015-08-12(Wed)
敗戦70年。


8月になるとマスコミ各社は終戦、終戦と取り上げるが、敗戦による終戦であり、無謀な作戦、無駄な抵抗で多くの人が犠牲となった。
この本は、ソ連抑留者の真実の声で小説ではない。目次を拡大して、いかに酷い扱いを受けたか知ってほしい。
①終戦の年、12月初めから翌年2月末まで約3ケ月のトランスワールの収容所は、まさにこの世の地獄であった。
1回200グラムのパンにキャベツの浮いたスープ「普通食の半分もない」 初めのうちは薪も無かったので室内でも0度以下になる酷寒。外は零下20度の猛吹雪。木製の蚕棚式ベット。薄い寝具、そのまま作業に出る着の身着のままの汚れきった軍服。シラミが湧き放題でも風呂は無い。・・・書き出せばとてもキリが無い、ルンペンの様な環境であった。
それでいて正味8時間の重労働・・皆痩せてフラフラになってしまった。耐え切れずに倒れる者が続出した。その殆どが栄養失調であった。顔がむくみ下痢が始まる。それでいて無性に食べたがる。或る日、物々交換で手に入れたのか、1本「3斤」のパンを抱え込んで貪る様に食べている兵隊がいた「そんな無茶な」そばの者が止めたが聞き入れない。翌朝その兵隊は冷たくなっていた。・・薬が無い。私達は、下痢が始まるとパンを真っ黒に焼いて食べた。時には絶食した。それが唯一の療法であった。ソ連側は微熱が有っても作業に追い立てた。或る時38度近い発熱で流石に休ませてくれた事がある。寝床でウトウトしていると、ソ連兵が来て、死体埋葬を手伝えと起された、健康な者は皆作業に出ている。埋葬は病人にやらせるよりなくなっていたのだ。
死体置き場は、みすぼらしい四坪位の老朽化した掘立小屋であった。周りの板壁はだいぶ剥がれ落ちて、隙間から容赦なく雪が吹き込んでいた。その中に遺体が山の様に積み重なって放り込まれていた。遺体は全部丸裸。服も肌着も剥ぎ取られた裸で文字通り放り込まれていたのだった。栄養失調による死体は痩せ細り骨と皮ばかり。こげ茶色で、申しわけないが焼鳥のようだった吹き込んだ雪と混ざりあって、何体あるか数える事も出来ない。見るも無残なその有様に、我々は息を呑んで立ちすくむばかりであった。その地獄の光景は今でもはっきりと瞼に焼き付いている。翌21年2月までに、750名のうち約160名が死亡したのでこの作業は中止になった。その他の収容所も厳しい労働が続いた。復員したのは22年11月だつた。帰国したい一念だけで耐えに耐えた約2年間の奴隷記である。・・・・70年前のスターリン独裁時代の事で・・現在の人は関係ない。棋楽
2015-08-11(Tue)
スーパー銭湯・遊友楽体験記。


最近は記憶力が無くなり写真をメモ替わりにしている、徒歩で4分で着いた、シニアマーク二枚と若葉マークを張った車は見た事は無い、初心者ではないが、未熟者を自覚している。神社のマークを張った車は良くみかけるが、気休めだけで効果はない。「奥」は名古屋の友人と展覧会に。露天風呂「草津温泉湯」と炭酸泉湯「37.7度」を交互に二回づつ炭酸泉が一番良かった、温泉の効能が書いてあるが、長期間続けないと効果はないだろう。脱衣箱が大きくなり、扉が開けたままになる、280番位まであったが「4」が抜けている。ゆっくり入って脱衣室を出たのが10時10分、大型テレビで高校野球を放送していたが見る気なし。再入浴の気分も出ずに帰る。まだ新装開店のホームページが更新されていない。「奥」今朝からいくらしい。
昨日アップした、「池波正太郎」には反応なし、65名の閲覧者は「本」が読めないらしい。棋楽
2015-08-11(Tue)
池波正太郎・作・雲霧仁左衛門。


1993年6月20日発行、630ページの大長編だった。剣客商売や鬼平犯科帳は、一話完結の短編集が多いが、「雲霧」はこれ一冊?・・土曜日に借りてきて、読みだしたら止められない、日曜日の午後10時に読み切った、傑作だった。若い頃に、長編物を読んでいて、残りが少なくなると、読み終わるが惜しい思いをした事があったが、この歳になって、こんな気持ちになったのは何10年振りだろう。
全て著者の創作だが、さも本当にその場にいたような表現は、筆力と言うべきだろう。推理小説ファンなら、図書館で借りて一読を薦める。:最初から読んで結末は最後に読むようにすべきだろう「当然だが」。原作を読んだらテレビは見たくなくなった。
昔の時刻は八ッ半「午後2時」のように現代人にも判るようになっている。大川は「隅田川」。
東に揖斐・長良・木曽の三川が伊勢湾にそそぐデルタ地帯をのぞむ多度神社・・・・となっているが、伊勢湾にそそぐ三角州「デルタ地帯」が正しいのでは「笑」棋楽
2015-08-10(Mon)