敗戦70年「4」


この本は1992年11月に発行、市販はされていない?当時の会員は39名 住所 氏名 電話番号も記載されている。敗戦時に25歳とすると、今年95歳、おなくなりになられた人も多いとおもいます。
骨と皮の内務係。収容所到着直後、私は曹長だったので収容所の中隊付内部係りになった、毎日、本部から伝達されてくる作業割り当てにしたがって、金山何名 除雪何名 便所掃除何名とかに割り当てていた。入所当時は体力もあったが、それも1週間ぐらいで定量の二分の一しかない食料で続々栄養失調になり、作業割り当てが日増しに困難となった。飢えの進行と同時にシャツ サルマタ 靴下といったいつた下着類の盗難も増えてき、夕方の炊事場で命の綱のカーシャ入りの飯盒が盗まれることが多くなってきた。皆、頬はコケ眼ばかりギョロつく餓鬼になっていった。入所以来入浴は一度もなく、シラミが身体中にとりついて、なけなしの血を無数のシラミに吸い取られる毎日となつた。半死半生の兵隊にとりついていたシラミは、冷たくなるとゾロゾロと這い出して隣の兵隊に取り付くので、シラミの動き方で兵隊の生死が判るのだった。中略 文字通りトランスワールは生き地獄だった。作業要員がいなくなり、私も作業に出るようになった。「中川さん、只今帰ってきました」と隣に寝ていた人に声を掛けたら冷たくなっていた。寝ている兵隊に「オイ起きろ。作業だ」と言って揺り動かすと冷たくなっていた。2月になり元気だつた私も体力、気力の衰えをひしひしと感じるようになつた。うかうかしていると自分の番がくると、我が身に言い聞かせて、気力が萎えてくると、頬を叩き、つねって気を盛り立てていた。3月になり、今思い出しても身の気のよだすようなトランスワールを後に半死半生の身体を引きずってギートロに向かった。佐藤さん。
忘れ得ぬロシア人。ドウラ軍医中尉。収容所の女軍医で、背が低く良く太った30歳位の女性だった。大変な癇癪持ちで、宿舎を巡回しては汚いとカンカンに怒り、ある将校は怠情をなじられ、頬に唾を吐きられたことがあった。私達は大いに彼女を敬遠していた。ある時私はシラミ消毒のため柵外の減菌所に同行した。私はウンザリして一日の平和を祈った。しかしこの時は機嫌が良く、いろいろと話合つた。話してみれば彼女とてもそう悪い人でないようだ、それどころか意外にも兵隊の味方であることが分かった。彼女はトランスワールで兵隊が病み衰え死んでいく見て心を痛め色々な悪条件が重なってにしても上官の無為無気力が我慢できないと言うのだった。そして彼女は自分がうるさがられていること知っていて「無事で帰国したとき私の気持ちを分かってくれる人もいるでしょ」と寂しそうにつぶやくのであった。ソ連警備兵が女性中尉のドウラを侮り、彼女の命令を聞かない事があった。彼女はは私を呼び「高山少尉、この兵隊に私の命令に従うよう伝えよ」と厳として指示した。驚いて私が指示するとかの兵隊はニヤリとして「ハイわかりました少尉殿」と真面目くさつて敬礼するのだつた。警備する者される者の立場は違ってもそこには捕虜に対する侮蔑はなかった。春に近づいたある日の夕暮れ、ドウラ中尉の宿舎から素晴らしいソプラノの歌声が響いてきた。この日彼女の歌うったサンタルチアは格別で周囲の山野に響きわたった。私達は彼女の歌に遠い祖国を偲んだ、涙をうかべる人もいた。癇癪玉を破裂させて怒鳴りまくっていた彼女も、捕虜一人ひとりの身を案ずる優しさがあった。この国に権力を盾に私利を貪る悪い者もいたが、精一杯仕事に励み、しかも純朴で常に快活さを失うことのないある種のソ連人も多かった。彼女もまさにその仲間の一人であったと思っている。高山さん。
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二等兵 一等兵 上等兵 兵長 伍長 軍曹 曹長 准尉 少尉 中尉 大尉 少佐 中佐 大佐 少将 中将 大将、敗戦は小3だったが、覚えている、アメリカは准将もいた?日本軍にはなかった。棋楽
2015-08-16(Sun)
 

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