敗戦70年「5」

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「ダモイ ダモイ 帰還」と騙されて連れて来られたのが、シベリアの中部、金鉱山トランスワールであった。着くまでに2カ月余かかり11月の下句になっていた。数10キロの雪道を歩かされ着いた所は山の中の収容所だった。一面の雪野原。2000坪位の広さで四隅に望楼が建っているがその他には建物らしき物はない。どうなることかと思っていたら、ソ連兵は雪の下に宿舎があると言う。手分けして雪を掻き退けて4メートル位掘り下げら入り口が見つかった。中は真っ暗。以前は囚人の収容所だったらしい。窓の外は雪の壁である。苦労は武装解除された日から始まったが、決定な悲劇は此処を舞台として展開されたのである。①の人、鬼頭さん。
地獄絵巻の現出。最初は死者の埋葬は金山に行かない軽作業者の仕事であつた。衰弱した身体でコンクリートのような凍土を掘ることは容易ではなかつたが、戦友の為と痩せた身体に鞭打って細々と続けられていた。しかし故障者が続出しい埋葬が間に合わず、死者は裸のまま収容所の廃屋に積み上げられるようになった。中略。火の気のない宿舎に骨と皮となって目ばかりギョロギョロと光る衰弱者が板の上に横たわり、1日2回の給食の際、飯盒の音がガチャつく以外は物音ひとつしない静寂と絶望感が収容所を覆っていた。中略 軍隊の組織は麻痺状態になり、飢えた兵隊がパンとの交換に死者の金歯を叩き折る、隣の戦友が死んでも申告せず二人分の食事を狙って死者と数日暮らす、炊事場の湯気に紛れてスープを盗もうとする者、等地獄絵巻が現出した。2月の死者は60名に上がった。編集者
死亡者についての考察。ソ連抑留者は約60万、死者は5〜6万人と推定されていたが、ソ連は1956年に僅か3597人と言い張ってきた。1991年4月18日、ゴルバチョフ大統領の持参では3万8647人となったが、真相は依然として藪の中である。
トランスワール収容所「ゴルバチョフ名簿」12月8名 1月33名 2月61名 3月54名 4月6名 5月記載なし 6月2名 合計164名。2月の死亡者の続出に中央から視察に来て収容所の閉鎖を決定したが、時すでに遅く3月に54名も死亡した。
ゴルバチョフ名簿にない死亡者。1月から断続的に下の診療所に転送された者及び3月にアカバン送りとなった約50名中相当な死者が出たと推定されるが、掌握できてない・・・ゴルバチョフ名簿に未掲載は少なくとも40人は超えると推定される。
入所当時、ソ連側には紙もインクもなく、古い小説本の上に、日本軍医局にあったうがい薬の二酸化マンガンを水に溶かしてインクとし、大きな字で書付ていた。医務室から送付される死亡記録を、佐藤少尉立ち合いの下で、死亡年月日順に原隊 階級 生年月日を記入していた。榊原軍医大尉、佐藤少尉はそれぞれ死亡者名簿を日本側記録として大切に保管していたが、3月末に没収された。私の判断。トランスワール収容所内の死者 168名「確実」 ギートロスタンイアでの死者 10名「確実」下の診療所での死者 約20名「推定」現地人の話と入室者の話を総合して推定。従ってゴルバチョフ名簿164名プラス未掲載者推定40名と総合的に考えて、トランスワールにおける約4ケ月の死者は200人を超えたと思われる。死亡率は26、6パーセントとなり、アバカン地区で最悪であり、全シベリアの収容所でもこのような事例はないと思う。我々は。結果論ではあるが、組織的な嬲り殺しに遇っあったと言っても過言ではない。佐藤さん。亡くなられた方々に合掌。
写真の女性は、抑留者の方々に親切にしてくれた人。拍手が「4」以上あれば連載する。棋楽
2015-08-18(Tue)
 

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