敗戦70年「14」・異国の丘・作詞 増田幸治 作曲 吉田正。

5_20151013123523f85.jpg
①今日も暮れいく 異国の丘に  友も辛かろ 切なかろ   我慢だまってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日もくる 春がくる。
③今日も昨日も 異国の空に おもい雪空 陽がうすい 倒れちゃならない 祖国の土に たどり着くまで その日まで。
大ヒットした曲、作曲家の吉田正氏も抑留者だった。①から閲覧してくれている方なら、その情景が目に浮かぶだろう。ネットに聞くことも可能、車には異国の丘 ああモンテンルパの夜は更けて 等を何時も流している。
死体整理・井関さん。4月30日、グラフスタンに着いた、所長より「7名を指揮してトランスワールに帰り、作業を命ず」部下が10名いて人選に迷ったが、希望者を募ったところ3名が申し出たので解決することができた。残された我ら8名は、再び苦しみを味わった、トランスワールに監視兵一人と共に出発した。翌日からの作業は残務作業で、想像していたより軽作業で食事も良かった。後で聞いたのだが、残った3名のうち2名が作業についていけず、栄養失調となり後方へ下がったようで、運命とはわからないものである。5月下旬、凍結した雪が融けはじめ、収容所の各家屋を見て廻ったら、数体の屍が出てきた。下で伐採作業中に聞いた事であるが、トランスワール収容所における兵隊の大部分が栄養失調に罹り、下山していく時に死亡した戦友をそのまま残していった当時の惨状を思い浮かべた。屍は我々の手で埋葬しなおした。埋葬場には150から160の墓標が建てられていた。削った杭に名前だけ記名された粗末なものであったが、当時としは残った者の精いっぱいの供養であったのであろう。凍結した雪土を掘り起こし、埋葬したようであるが、栄養失調に罹った者にはその作業も重労働で、充分に掘ることもできず、浅い穴に埋めたのか、6月初めには埋葬場の雪解けの跡に続々と死体が出てきて、毎日のように埋めなおしを続けた。死亡した方々は、果たして幾名が故郷へ知らされていたのだろうか。当時我々は、一人一人日本に知らされていると聞いていたが、果たしてどうでどうだったろうか。トランスワールの生活は6月15日まで続いた。私たちは幸いにも最初の除雪作業に出て、楽な作業にまわったようである。グラフスタンの除雪作業で収容所長に認められたのも、後の生活に役立った。15日夕方グラフスタンに到着、所長が出迎えてくれた。19日夕、所長より特別な招待を受ける、二人だけの会食、片言まじりロシア語のやりとりであったが2時間、今も忘れる事は出来ない。20日にいよいよ別れの日がきた、出発の早朝なので所長は送ってくれないと思っていたが、見送りの先頭に所長の姿を見た時はうれし涙がとめどもなく出たものであった。
注、この人は初期の段階で伐採にでたので金山作業はしていない。しかし別の収容所でソ連兵の不正を命がけで、所長に直訴した。
敗戦70年を初めてに人は必ず①より閲覧してほしい。「拍手5」で継続。棋楽
2015-10-13(Tue)
 

コメントの投稿

非公開コメント


プロフィール

棋楽

Author:棋楽
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ
FC2カウンター
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索