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敗戦70年「15」抑留者の手記。


命拾いした機械修理工、笹尾さん。雪中の難行軍の末たどり着いた所は雪に埋もれた火の気のない収容所だつた。息つく間もなく「機械の修理工は申し出よ」の命令で20名程が集められた。毎日二名の護送兵つきで3キロ下の精錬所に通った、仕事は鉱石粉砕機の修理が主で、我々にとっては手慣れたもので、現地人より能率も良く、色々と教えてやった。食事も現地人と同じ食堂で200グラムぐらいのパンか肉入りの雑炊にスープが付いており、腹を空かした我々にとっては最大の楽しみであり、スプ濡れで重労働の金山労働とは天と地の差があった。私は金山に入っていたら確実に死んでいたと今でも思う。零下30度の通勤は楽ではなかった、10日に1回くらいに来る、ブーリャ「風速30メートルの暴風」に遭遇するときは死ぬ思いであった。風が路面の雪を巻き上げ1メートル前も見えなくなり、先頭の護送兵は馬橇の跡や馬糞を頼りに地面から30センチまで腰をかがめてソロソロ歩き、我々も背を丸めて前の人の背中に顔を付けて歩く。200メートルから300メートル程歩くとねまつ毛が凍って目が見えなくなる。「全員止まれ」で立ち止まって防寒外套から手を出して瞼を押し開くとバリバリと音がする。又「前に進め」と歩きだす。3キロの道を2時間程かかって漸く辿りつくのだった。飢えと寒さと重労働で金山労働の仲間はバタバタと倒れてい行き、所内に元気な者は少なくなった。死んだ者の毛布や防寒外套は皆生き残った者たちのパンに換えられた。2月に入ると比較的元気な私達は死者の埋葬が作業後の日課になった。最初は死者を担いで顔と顔がぶっかりて心が痛んだが、毎日の重労働の中では無感動でノルマをこなす日々となっていた。
2月末死者の多さに金山労働が中止になり、元気な私達は3月上旬、ギートロ伐採に振り向けられた。
貨車から降ろされて3日2晩の雪中行軍の最後に近い小部落を通った時。老婆が籠に蒸した馬鈴薯を持って来て、通り過ぎて行く兵隊達に泣きながら「お前たちは山で死ぬ」と言って1個ずつ手渡してくれた。その時は判らなかったが、入山後老婆の言葉と親切が深く胸に刻みこまれて今でも忘れられない思い出の一つである。
敗戦70年を初めて閲覧した人は必ず①より閲覧してください。拍手5にて継続。棋楽
2015-10-21(Wed)
 

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