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私はローマ字は読めません。



私は昭和11年生まれ、6年生の時にローマ字の時間があったかどうかは覚えていません。
中1になり英語がありました。当時は塾などは無く、全員同じ条件ですね、英語は読む・書く・聞く・話す・?のように分かれて、5段階て評価され「1から5」までを、それをまとめて英語の「1」から「5」に一割がと聞いたような気がします。英語は専門の教師がいました。私は一年生の時は全期間、オール5でした。しかし教師が変わった二年生からは制度が変わり、細かい評価はなくなり「教師の負担を減らす為?」 二年生は全期間「3」でした。
三年生は職業選択科に入りましたが英語の科目はありませんでした。当時の教育委員会は中卒には、英語は必要ないの判断かな。大工や左官 建具屋などは英語は要りません。数学の因数分解も幾何なども。

養成工は、一年生は学科が昼まで、午後は実技の時間で、二年生は隔日が学科で、午後は各現場に配属されました。
現場に英語なんて必要ないと思っていましたから、全然勉強はしませんでした。

一学期が終わってすぐに、22人の成績の順位が廊下に張り出されました。
養成工を卒業すると高卒と同じ待遇なのに゜、8人ぐらいは定時制に行っていました。勉強なんてした事ない私は「6番」で将棋の強さは知れ渡っていましたから、「棋楽」は頭が良いと誤解した人が少しいました。成績の公開はその時だけでした。

配属されたのが木型「機型」、図面を見て、鋳物の型を作る仕事で、職人は全員が青年学校「戦前の呼び名」の出身でした。
一期上の先輩も一期の後輩も優秀な人でした。幸いにも?不景気が来て、木型部門は閉鎖され、職人は独立して会社を作りました。このなかには鳥羽の市会議員を務め、民宿から 鳥羽で有数の観光ホテルのオーナーになった人がいました、この人は娘夫婦と尋ねています。その人の同級生も優秀な人で名古屋に木型工場の会社を作りました。一期上の先輩は会社に見切りをつけて名古屋に就職、後輩は東京営業所に転勤になりました。
そして私は一人しかいない熱処理に転属となったのが、運が良かったと思っています。

話が横道に大きくそれましたが、興味のある人だけ読んでください。

要は私はローマ字は読めないから、何事も日本語で書いてください。

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2018-12-26(Wed)
 

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